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坂本龍馬の生涯をおさらい

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龍馬の足跡をたどり、思いをはせる。

目次

生い立ち

坂本龍馬は1835(天保6)年11月15日、現在の高知県高知市上町一丁目の土佐郷士・坂本八平の次男として誕生しました。龍馬の他には21歳離れた兄・権平、千鶴・栄・乙女といった三人の姉がいました。坂本家はもともと武士の家であり豪商才谷屋の分家筋であった。幼いころの龍馬は動作が鈍く、物覚えが悪く塾の師範にも持て余されて、気が弱かった子供時代であった。

ある日、才谷屋にいた龍馬は上士が主人に頭を下げて借金をしている光景を見た。当時の土佐藩では上士(山内家を祖とする配下筋)と下士(長曾我部家を祖とする配下筋)という身分制度があった。その時龍馬は、「なぜ、こんな奴らが偉いのか?」と疑問に思ってたという。12歳の時、龍馬は母を失い、母親代わりである3つ上の姉・乙女から剣術、算術、泳ぎなどさまざな特訓を受けて、たくましい青年へと成長する。
乙女は身長176センチ、体重113キロの体格の持ち主で、「坂本のお仁王様」と呼ばれていた。

江戸遊学から勝海舟との出会い

1853年(嘉永6年)龍馬は剣術修行のための江戸へ遊学する。江戸へ着いた龍馬は北辰一刀流の道場「千葉道場」へ剣術の修行を行い師範の千葉定吉から免許皆伝を受ける。この年、アメリカのペリー提督率いる黒船が浦賀沖に現れ、藩より臨時招集を受けた龍馬は、品川の土佐藩下屋敷の守備の任務に就いた。

1年3か月の修行を経て龍馬は土佐へ帰国する。帰国した龍馬は、藩の絵師・河田小龍より国際情勢を学び、海運の重要性などについて説かれて大いに感銘を受けた。1858年(安政5年)頃になると、土佐では武市半平太が「土佐勤皇党」を立ち上げて尊王攘夷思想が下士たちに広まり、主流となった。当初、龍馬も党員の一人として加盟してたが、武市との意見や思想などの食い違い等から勤皇党を脱退した。

1862年(文久2年)3月、龍馬は土佐を脱藩する。脱藩後、江戸についた龍馬は勝海舟と会う。はじめは勝を斬る目的で訪れたが、勝から世界情勢などを説かれて大いに感銘を受けて勝を斬ることを断念した。その後、勝は神戸海軍操練所など設立し、勝の右腕となった。

亀山社中設立から暗殺まで

1865年(慶応元年)、龍馬は長崎に日本初の貿易商社「亀山社中」を設立した。土佐藩による出資でる亀山社中はイギリス人商人である、トーマス・グラバーの援助を経て武器等の取引などを行っていた。

あくまでも定説であるが、1863年(文久3年)頃の龍馬には6か月間の空白期間があった。この時期に長州の高杉晋作が藩の命令で清や香港などを視察するよう命が下り、龍馬も高杉に同行して清や香港で異国との交わりのついて学んだという説もある。そこで学んだ、知識などを生かして亀山社中を設立したのではと考えられる。このころの龍馬身なりは、足袋ではなく革靴を履いており、護身用にはピストルを携帯してたという。先に述べた、6か月の空白期間の間に異国のファッションなどを知ったとも考えられる。

1866年(慶応2年)、かねてより犬猿の仲であった薩摩と長州を和解させるため、龍馬は薩摩藩家老・小松帯刀の京都屋敷において「薩長同盟」を締結させる。翌年の1867年(慶応3年)亀山社中を「海援隊」と改名させた。このころ龍馬は胸の内に温めていた「船中八策」の構想を発案し、土佐藩の後藤象二郎を通じて「大政奉還」を山内容堂に伝え、容堂より慶喜に打診があり、10月14日に「大政奉還」が行なわれた。大政奉還が行なわれた1か月後の、11月15日に京都の近江屋で、中岡慎太郎と共に刺客に襲われ瀕死の重傷を負い暗殺される。その数日後に中岡も絶命した。

龍馬の暗殺説は薩摩黒幕説などいろいろあり、当初、新選組が疑われたが当日に会合を行っていたというアリバイがあった。明治になると、ありとあらゆるところから龍馬の暗殺に関する情報が寄せられたりした。そのほとんどが信ぴょう性がないものが多いため、迷宮入りとなっている。

※画像はイメージです。

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