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真田紐の真田はあの真田?

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今に伝わる真田紐、なぜ真田なのでしょう。

目次

真田紐とは

真田紐は織物である。
衣服の布地同様に経糸(縦糸)に緯糸(横糸)を編み込んで作られ、巾6㎜程度のものもあって世界最小幅の織物といえる。
一方、靴紐やロープなど紐と呼ばれるもののほとんどは「組紐」で、編み方の基本が三つ編みなので糸が斜め方向に絡んでいる。
つまり糸が縦横方向に編まれた真田紐は組紐とは全く別ものなのだ。

さらには真田紐は通常より倍以上の本数の経糸を使い、織り上げる際に縦横方向に強く圧縮するので、非常に伸びにくく丈夫なのが特徴となり、通常の一重織りではなく筒状に織った袋織りではさらに強くなる。
真田紐で作られた下げ緒(刀の鞘を帯に結び付ける紐)で白刃を受け止め、絡めて奪い取る技があるほどだ。

そんな真田紐は、戦(いくさ)が多発して闘争方法が激化・多様化した戦国時代に、武具馬具に多用されるようになった。
例えば甲冑はその製作・着装に多くの紐が使われる。
丈夫で伸びない真田紐はその性質を活かせる部分に好んで使われ、また甲冑を持てない足軽・農民兵など下級兵は、真田紐と鉄片や竹革を組み合わせた簡易防具を身に着けた。

だが真田紐はむしろ民生用に需要があり、重い荷物の運搬や旅装用に重宝された。
茶の湯が確立されると、茶道具を入れる木箱を括る紐としても広まり、絹の真田紐はタスキや帯留めにも使われ現代に伝わっている。

あの真田家由来?

真田紐の名の由来は有名な真田幸村(信繁)のあの真田家だとも伝わるが、よく分かっていない。
紐状の細幅織物としては、チベット地方で昔から織られていたサナールがあり、平安から鎌倉時代頃の日本にそれが伝わっていて、これが「サナダ」紐の語源だという説もある。

いずれにせよ機織りの技術や機具の進歩に伴って、長く丈夫に織り上げられるようになった真田紐。
戦国期の大量需要を賄うために各地で作られており、戦国末期の関ヶ原合戦で敗れ、紀州九度山に蟄居した真田昌幸(幸村の父)が発明したのいうのは間違いであろう。

それではなぜ真田の名が冠されたのか。
上州上田の一土豪に過ぎないは真田昌幸は、大名となった徳川家康の大軍勢を二度も打ち破っており、真田の名はその類稀な智略軍略によって世に鳴り響いていたが、そんな昌幸も浪人後は生活が困窮した。

かれはそれを凌ぐための内職として、自分の具足の要所に多用していた真田紐を織って行商人に卸していた。
その真田の紐を扱う商人は、「有名な真田様が使っていた真田紐」と声高に謳ったのではないか。
買う方も「おお、かの真田殿の紐か!」と、いつしか真田紐の名が定着したのだろう。

真田の知名度と真田紐

豊臣徳川の最後の大戦である大阪の陣で、昌幸の嫡男幸村が大活躍の果てに華々しく散ったことで、真田の知名度は益々上がった。
それは真田紐の名の普及をさらに推し進めたに違いない。

一方、真田の本地である信州上田では、現在も上田紬という絹織物が名産である。
江戸初期に養蚕と絹の織物が盛んになった信州で信州紬が生まれ、上田織はその一つである。
今に伝わるほどのこの織物の技術が突然現れるわけはなく、それ以前からの元になった高度な織技術が存在したはずである。

上田が本拠だった真田家の、家人郎党やその女の中にもその職人がいたに違いない。
昌幸幽閉の折に供をした中にいた織職人の教えの下に、上質な真田紐が生産された可能性は少なくない。
この織技術の優秀さに加え、昌幸が具足に実際に使用した経験を活かすことで、他所産のものと比べて真田家のそれが一段高品質だった可能性は十分にある。

真田家の有名と紐の高品質が結び付き、真田と銘打った紐が全国を席捲したのではないだろうか。

参考:
真田紐師 江南 真田紐ってどんな紐? 
きものおもひ

歴史大好きじいさんです。
出自が謎の優れものがあります。

※画像はイメージです。

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