MENU

3代将軍「源実朝」の謎

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

元々源実朝は将軍就任が、難しい立場にありました。
源頼朝の次男として生まれた実朝は、長男である源頼家が将軍職に就き、子供にも恵まれていたため将軍としての人生を送る事はなかったかもしれません。
それだけに彼の将軍就任の経緯や最後の様子にはとても謎が残っています。

目次

将軍に就任

源頼家は、頼朝以来の御家人の支持を得る事ができず独断で物事を進めるため、御家人たちはいち早く鎌倉13人衆とよばれる集団指導体制に移行します。さらに頼家と深刻な対立を招いた北条氏が中心となり頼家を伊豆の修善寺に追放し、のちに討ち滅ぼしてしまいます。そののち将軍に就任したのが3代将軍である源実朝です。

実朝は元々、頼家が御家人の支持を得られる人物であれば3代将軍の可能性が少なかったといえます。
この頼家の後継者を巡る、不自然な動きが後の源実朝の悲劇的な最後につながっていったといえそうです。

3代将軍の最後

源実朝は、北条一族を乳母に持ち、北条氏の保護を受けて、3代将軍として御家人たちをまとめていきます。
しかし源頼朝以来、鎌倉幕府を支えた有力な御家人たちはあくまで将軍に忠誠は誓うものの、だれもが自分こそ鎌倉御家人として最大の勢力を誇っている気持ちがあり、お互いが激しい勢力争いを繰り広げる日々に明け暮れていました。

そんな時、頼家の遺児でもある公暁という人物が鶴岡八幡宮の別当職に就きます。
公暁はもともと、有力御家人である三浦義村を乳母父に持つ人物でした。

実朝の最後

1219年鶴岡八幡宮で源実朝の右大臣拝賀の儀式が行われます。
当日は雪が降っていたそうです。帰り道の実朝に突然公暁が現れて、「親の仇はかく討つぞ」と叫びながら斬りつけてきたといわれています。この結果、源実朝は落命します。
同時に公暁は同行していた源仲章を執権北条義時と間違って斬りかかりますが、公暁がなぜこうした行為をとったか謎です。

また公暁はこの行動の後に、三浦義村に対して自分こそ将軍であるから、すぐに自分の配下に入るよう命を下しますが、なんとその三浦義村の部下により公暁は討たれていまします。
ここに源氏3代の血統は消滅し、源氏の正統はこの世から消えてしまいます。

総括

源実朝を公暁が討うった理由は、諸説あり今でも謎のままです。また公暁が乳母父である三浦義村となんらかの通謀があったのではと述べる人がいます。
三浦義村は、北条義時と幕府内で激しい勢力争いをしていただけに、もしも公暁が義時を討っていれば、三浦義村は公暁の味方をしていたかもしれないという推察する人もいます。

これらは全て現在でも謎のままですが、いつの日か新しい資料なりがでてくればこうした見解に終止符が打たれる日がくるかもしれません。

featured image:Hannah, Public domain, via Wikimedia Commons

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

どんな事でも感想を書いて!ネガティブも可!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次