1915年(大正4年)12月、北海道苫前郡苫前村三毛別(さんけべつ)(現・苫前町三渓)。この地で、女性や子供、7人もの人間が巨大なヒグマに襲われる事件が発生した。
住民達の手によりヒグマは討伐されたものの、この事件はそれだけでは終わらなかった。人を殺めたヒグマ死してなお、関わった者たちの人生を狂わせていく。
ヒグマの解体
凄腕の猟師、山本によって射殺されたヒグマは黒褐色の雄、推定7~8歳の成獣だった。
身の丈2.7mで重さはなんと340kgにもなる大物で、死してなお人々を震え上がらせたという。
ヒグマの死体は住民達の手により、山からそりで下されることになった。
現場一帯は大々的なヒグマ討伐隊が結成されて以降、晴天に恵まれており、下山の準備は着々と進んでいく。
ヒグマ討伐の観点から言えば、天が人に味方をしてくれていたのだろう。
しかし、そりにヒグマの巨体を載せて引き始めると状況は一変。
先刻までの晴天が嘘のように、空が曇り、雪が降り始めた。
次第に雪は風を伴って激しい暴風雪に変わり、そりを引き下山する人々に容赦なくを打ち付ける。
この日の最大瞬間風速は40~50m/sにもなったとされており、この天候の急変を、住民達は「熊嵐」や「熊風」と呼び恐れた。
ヒグマの蛮行に対する天の怒りなのか、それとも行き場を失ったヒグマ怒りが天に届き暴風雪を呼び寄せたのか。
この冬の嵐には不吉なにおいが含まれていた。
やっとの思いで集落に下されたヒグマは三毛別の分教場で解剖・解体されることになった。
予想されていたことではあるが、解剖されたヒグマの体内からは人肉や衣服が次々と出てくる。
太田家や明景家で喰われた女性や子供達の物だ。
親しい者が無残にも獣に喰い荒らされたという残酷な現実が、改めて白日の下にさらされた瞬間だった。
しかし、この解剖によってさらなる驚愕の事実が明らかになる。
解剖を見物しに来た人々が「このヒグマは太田宅襲撃の数日前に雨竜、旭川付近、天塩で3人の女性を殺害して喰ったヒグマだ」と次々に証言しはじめたのだ。
実際に胃の中からはそれを裏付けるように、太田家、明景家の犠牲者の物とは異なる衣服の切れ端などが出てきた。
もしもこれが事実だとすれば、このヒグマは相当広い範囲で、実に10人もの人間を殺害していることになる。
まさに悪魔の所業といっても過言ではないだろう。
こうしてさらなる悲劇が明かされ、ヒグマの解剖と解体は終わった。
さて、ここで解体された後のヒグマはどうなったのか。
金銭的価値のある毛皮や骨格の類は幾人かの人の手を経て行方が分からなくなってしまったそうだが、解体後の肉の行方はわかっている。
なんと、住民達や討伐に参加した者達で煮て食べたのだそうだ。
死者の弔いのためなのか、単に熊肉がおいしそうだから食べてみたのか真相はわからないが、筆者は頼まれても食べたくはない。
ここからは少し余談になる。
北海道には元々、アイヌと呼ばれる先住民族達が暮らしていた。
アイヌ民族は身の回りのあらゆるものに魂が宿っていると考えており、その中でも人間の役に立つものや人間の力では及ばない事象など、特別なものを神として扱い、「カムイ」と呼ぶのだそうだ。
狩猟を生業の1つとしていた彼らにとって獲物である動物は、神の国から神がその肉や毛皮をまとい人間が住む場所まで降りてきて狩りの対象となってくれている存在であった。
つまり動物達もまたカムイなのだ。
中でもヒグマは「キムンカムイ(山の神)」と呼ばれ、特別丁重に扱われる(なお、“丁重に扱う”とは“狩りの対象ではない”という意味ではない)のだという。
しかし、例外がある。
それはカムイが人間を殺してしまった時だ。
人を殺めたカムイは「ウェンカムイ(悪い神)」となり、神の国に帰ることなくアイヌの人々の考える地獄に送られる存在になる。
ウェンカムイとなったヒグマを狩った際、たとえ毛皮や肉にどんなに価値があろうともアイヌの人々はそれらを持ち帰ることはない。
それが彼らにとって、丁重に扱わないという意味なのだ。
ましてやウエンカムイの肉を口にするなど言語道断だ。
このアイヌ民族の考え方の中では、もしも人を殺したヒグマの肉を食べたからといって、食べた人間がどうこうなるというわけではない。
しかし、「ウェンカムイなどあくまで伝承の一種。空想の産物である」などと言い切ってしまうには、にわかに信じがたい事が起こったのだ。
このヒグマ肉を食した席に、ある鍛冶屋の息子がいた。
彼は平素、特に変わったところはない普通の青年だったという。
この鍛冶屋の息子が肉を食べた日の晩から、突如として凶暴化してまったのだというのだ。
息子は家の者に襲い掛かり嚙みつくなど、まるで人が変わった、いや、人ではない獣のように変わってしまった。
日に日に凶暴性が増していく息子に困り果てた家族は、彼を寺に連れて行った。
すると寺の住職は、「間違いなくヒグマの祟りである」と断言したのだ。
死んだヒグマに見入られた息子のため、近親者達が寺に集まり皆で祈りを捧げたところ、ようやく息子は落ち着き、以前の様子取り戻したのだという。
人喰いヒグマは死してなお、人々に恐怖をもたらし続けたのだ。
ヒグマに取り付かれた男達
日本の獣害史上最大の惨劇と言われる三毛別ヒグマ事件。
数多の犠牲者を出し、そこに住む多くの人間達の人生を狂わせた事件は、ヒグマを討ち取ったことで終結してなお、幾人かの人生を翻弄し続けた。
そのうちの1人が、木村盛武氏だ。
木村氏は1920年、三毛別ヒグマ事件の5年後に札幌市で生まれた。
彼自身は事件の当事者、関係者ではなかったものの、父親や親戚が林務官であったため、父親らから三毛別ヒグマ事件の話を聞いたそうだ。
その事件のあまりの凄惨さに、ヒグマという存在の恐ろしさが幼少期の記憶に強烈に印象付けられたという。
そんな木村氏自身の身にもヒグマという存在が絡みついてくる。
水産学校の学生時代、実習先でヒグマに襲われるという事件に遭遇したのだ。
この事件では残念ながら1人が犠牲になっている。
被害者は木村氏らよりもわずか20分ほど前に出発した人物だったといい、木村氏はその事件現場を目撃。
自分のすぐそばに被害者を殺害したヒグマがいる気配を感じ、全身が総毛立つ恐怖を味わったのだという。
命は助かったものの、この身の毛もよだつ体験と幼少期の強烈な記憶から以後、木村氏はヒグマに対する関心から逃れられなくなってしまう。
他職を経た後、父と同じ林務官になった木村氏は1961年、何の因果か事件現場を管轄する古丹別営林署に配属となった。
ある種の運命を感じた木村氏は、自分なりに三毛別事件の真相を導こうするが、なんとこの事件についての資料がほとんど存在しなかったのだ。
事件があまりに凄惨であったため、当時の関係者が皆一様に口を閉ざし、さらには伝聞に尾びれが付いて回ってしまったため、客観的で正確な文献としてまとめられることがなかったのだという。
これだけの事件であったにも関わらず、当初は正確な犠牲者数すら定かではない状況だったのだ。
木村氏は一念発起し自らの足で現地を調査。
当時の事件に関わった者やその家族縁者などに聞き込みを行ったのだという。
事件から約45年、当時を知る人も少なくなり、記憶も色褪せ始めているとはいっても、実際にこの事件を経験した当人にとってはやはり思い出したくもない過去。
事件で生き残った人物に話を聞きに行った際など、「人の気持ちになってみろ!」と鬼の剣幕で追い返されることもあったという。
それでも交渉を重ね、事件の当事者も含め30人余りの証言を得た木村氏は、1965年、旭川営林局誌「寒帯林」の中で、「獣害史最大の惨劇苫前羆事件」としてその成果を発表。
この年は奇しくも事件からちょうど50年。
半世紀を経て、ようやくこの惨劇が世に知られることとなったのだ。
木村氏のおかげでこうして今、私たちが事件を知ることができている。
そのきっかけを作ってくれたことには深く感謝したい。
だが、事件がまとめられるまでの彼の人生を振り返ると、まるでヒグマに運命を絡めとられているようで、少し背筋が寒くなる気がする。
ヒグマに人生を捧げた大川氏
そしてもう1人、こちらは事件を体験したことをきっかけに自らの人生をヒグマに捧げ続けた男がいる。
大川春義氏という猟師だ。
大川氏は1909年生まれ。三毛別ヒグマ事件の当時は5歳か6歳だったことになる。
なぜ幼き少年がこの陰惨な事件を体験するに至ったのか。
彼は前述の(解決・考察編)内に登場した、討伐隊がその本部を設置した家、三毛別地区区長、大川与三吉の息子であったのだ。
これにより大川少年は、事件発生直後からヒグマが討伐され集落に運び込まれるまで、事件の一部始終を大人に混ざって目撃することになる。
小学校就学前の子供が、おそらくは面識もあった自分と同じ年頃の子供達を次々と嬲り、喰い殺すという常軌を逸した事件に触れるなど、あまりにショッキングすぎて現代ではなかなか考えられない。
この事件は大川少年にもやはり強烈な衝撃を与えたようで、彼は幼心にヒグマを憎み、事件直後に父親に勧められたこともあり、猟師になることを決意。
後に事件の犠牲者達の位牌の前で、犠牲者1人につきヒグマを10頭、計70頭を仕留めて仇を討ち、無念を晴らすことを誓ったという。
義に篤い少年だったと受け取れなくもないが、まるで幼子が悪魔に心を鷲掴みされてしまったようにも見えるのは考えすぎなのであろうか。
そこからの大川氏の人生はまさに有言実行。
子供時代から事件で最後にヒグマを仕留めた山本に師事し、猟師としての技術と心構えを身に付けていった。
徴兵年齢である20歳に達して猟銃所持が許可された後、大川氏21歳の時に父親から銃を買い与えられ、猟師となる。
その後は打倒ヒグマを目指し山に入るものの、恐怖が勝ってヒグマを討ち取れない年月を苦悶しながらも、初めて山に入った日から10年以上経過した大川氏、32歳の時についにヒグマの親子を仕留めることに成功。
その後は戦争を挟んだものの、着実にヒグマを仕留め続け、位牌に誓った70頭を見事仕留めた。
しかし、北海道内では依然としてヒグマによる被害が続いていたため、大川氏は新たにヒグマ100頭討伐を決意。
1977年5月、大川氏は1度に3頭のヒグマを仕留め、ついに目標とした100頭を達成した。
70歳を目前にして、ついに念願を達成したことになる。
人間の側から見れば、農作物や家畜を荒し、時には人の命をも脅かす害獣を駆除し、北海道開拓と生活の安寧に貢献した英雄であろうが、ヒグマにとってみればどうであろうか。
事件のヒグマは確かに人を喰い殺したが、それが他のヒグマに何の関係があったのであろう。
大川氏は多くのヒグマを仕留めた一方で、ヒグマを「山の神さん」と呼び崇めていたそうだ。
仕留めた後には、庭に用意していた木で拵えたやぐらにヒグマの毛皮と頭蓋骨を祀り、ろうそくを灯して拝んでいたという。
アイヌ民族の儀礼の中に、イオマンテと呼ばれるものがある。
ヒグマが捕れたことに感謝し、捕ったヒグマの魂を盛大に元々彼らが住んでいた神の国に送り帰すことで、再び人の世界に戻ってきて欲しいと祈る儀式だ。
大川氏の行っていたことは、それに似ている。
しかし、儀式は似ていたとしてもその起源は全く異なる。
アイヌ民族の儀式の根幹にあるものはヒグマというカムイに対する感謝であるが、大川氏のそれはどうだったであろう。
幼き日に灯った憎しみの火種が胸にくすぶったままの祈りに、果たして討ち取られたヒグマの魂は慰められたのであろうか。
念願の100頭討伐を達成できたこと、そしてその年齢もあって大川氏は猟師を引退した。
たしかに年は70歳を超えていたものの、飲酒も喫煙もせず、食欲も旺盛で健康そのもだったらしい。
その後の人生は他の地元住民らと協力し、事件の犠牲者たちの慰霊碑の建立したりと、死者の弔いのために捧げていたそうだ。
1985年12月9日、三毛別ヒグマ事件の70回忌の法要が行なわれた。
12月9日は事件で最初の犠牲者、太田マユや幹雄が亡くなった日である。
この日、大川氏は法要主催の筆頭として、そしてヒグマ討伐の立役者として講演を行う手はずとなっており、いつもと変わらぬ様子で講演の壇上に立ち、集まった人々の前に現れた。
しかし、壇上で「えー、みなさん……」と話し始めると同時にぐらりと倒れ、そのままその日のうちに亡くなってしまったのだ。
仇討ちとしてヒグマを狩り続けた末、事件同日に急死したことに、周囲の人々は因縁を感じ震え上がったという。
多くの人に見守られる中、その命が天へと召される様は、イオマンテの儀式の様子とかぶるものがある。
運命をヒグマという呪縛に囚われた男の命を狩り取っていったのは、ただの寿命だったのか、それとも果たして・・・
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