三人目の席

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午後十時を過ぎると、営業部のフロアには人の気配がなくなった。

ビルの十階。窓の外には隣のビルの非常階段が見えている。昼間なら何の変哲もない景色だが、夜になると窓ガラスに室内が映る。そのせいで、背後に誰か立っているように見えることがある。

佐伯はパソコンを閉じた。

「まだ帰らないのか?」

向かいの席で、森が資料をまとめていた。

「帰るよ。これだけ終わったら」

「それ、昨日も言ってたな」

「昨日はお前が手伝ってくれただろ」

「今日は手伝わない」

「冷たいな」

「昨日で懲りた」

森は笑った。

佐伯は笑わなかった。

昨日。

その言葉が出た瞬間、二人とも同じことを思い出していた。

一週間前、このフロアで社員が一人死んだ。

名前は川原。

三十二歳。営業二課。

夜間に一人で残っていたところ、会議室で倒れているのが見つかった。

死因は急性心不全。

警察も会社も事件性はないと判断した。

ただ、奇妙なことが一つあった。

川原が最後に使っていたパソコンの画面には、作成途中の報告書が開かれていた。

そこには、たった一行だけ残っていた。

「佐伯さんと森さんに確認」

それが何についての確認だったのかは、誰にも分からなかった。

「なあ」

森が言った。

「何?」

「昨日の電話、覚えてる?」

佐伯の手が止まった。

「……何の電話?」

「十一時ぐらいに、お前から電話があった」

「俺から?」

「そう」

「何を話した?」

「それが、よく覚えてない」

「酔ってた?」

「飲んでない」

森はスマートフォンを取り出した。

「履歴、残ってる」

画面には、午後十一時三分から十一時四十分までの通話記録が表示されていた。

「確かに俺の番号だな」

「だろ?」

「でも俺、昨日十一時には家にいた」

「俺も会社を出てた」

「だから変なんだよ」

森は少し黙った。

「録音もある」

「録音?」

「仕事用のアプリが自動で保存してた」

佐伯は眉をひそめた。

「聞いたのか?」

「一人で聞いた」

「何だった?」

「最初は普通だった」

「普通?」

「俺たちが話してる」

「俺たち?」

「そう」

森は再生ボタンを押した。

しばらくして、佐伯自身の声が聞こえた。

『昨日の件だけど』

佐伯は顔を上げた。

「俺だ」

「うん」

続いて森の声。

『まだ気にしてるのか?』

佐伯の表情が変わった。

「……何の話だ?」

「それが分からない」

『川原のことは、もういいだろ』

佐伯が立ち上がった。

「止めろ」

森は再生を止めた。

「川原って言ったよな」

「聞こえた」

「俺たち、昨日その話してないよな?」

「してない」

「そもそも俺、お前に電話してない」

「だから録音を持ってきた」

佐伯は椅子に座り直した。

二人の間に、しばらく沈黙が落ちた。

「川原のこと、会社ではもう終わったことになってる」

森が言った。

「そうだな」

「でも、俺たちは終わってない」

「何が?」

「川原が死んだ夜のこと」

佐伯は答えなかった。

川原が死んだのは一週間前。

その日の夜、残っていたのは三人だった。

川原と、佐伯と、森。

三人とも、それぞれ別の仕事をしていた。

午後十時過ぎ、川原が会議室に入った。

その後、佐伯と森は先に帰った。

それが会社に提出した説明だった。

だが、実際には違った。

佐伯は帰る前に、川原と口論していた。

森も、その場にいた。

原因は営業成績の改ざんだった。

川原はそれを上司に報告すると言っていた。

佐伯は止めた。

森も止めた。

「川原は、あの日何て言ってた?」

森が聞いた。

「覚えてない」

「嘘だろ」

「覚えてない」

「『明日の朝、全部話す』って言った」

佐伯は黙った。

「そのあと、俺たちは帰った」

「そういうことになってる」

「なってるんじゃなくて、そうしたんだろ」

「何が言いたい?」

「俺たち、川原を会議室に一人で残して帰った」

「だから?」

「その一時間後に死んだ」

「事故だった」

「そうだな」

「警察もそう言った」

「でも、お前は会議室の鍵を閉めた」

佐伯が森を見る。

「……何の話だ?」

「覚えてるだろ」

「知らない」

「川原が中にいるのを確認して、お前が鍵を閉めた」

「閉めてない」

「俺は見てた」

「お前だって何も言わなかった」

「言えるわけないだろ」

「じゃあ同じだ」

森は目を伏せた。

そのとき、佐伯のスマートフォンから小さな音がした。

録音アプリだった。

再生していない。

それなのに、音声が流れていた。

『鍵、閉めたよ』

二人とも動かなかった。

森が画面を見る。

録音ファイルの再生位置が、勝手に進んでいた。

『これで誰も入れない』

佐伯の声だった。

「……俺、こんなこと言ってない」

森が答えた。

「言った」

「覚えてない」

「俺は覚えてる」

録音は続いた。

『明日の朝になれば、全部終わる』

森の声。

その直後、別の声が入った。

『明日はないよ』

二人は顔を見合わせた。

「川原?」

森が呟いた。

佐伯は首を振った。

「川原は、こんな声じゃない」

「じゃあ誰だ?」

答えられない。

録音の中で、三人目の声が続いた。

『二人とも、俺が死んだことにしたかったんだろ』

森がスマートフォンを奪った。

「止めろ」

「止まらない」

「電源切れ」

「切ってる」

画面は暗くなった。

それでも音声だけが続いた。

『だから、二人で覚えてることを変えた』

佐伯の顔から血の気が引いた。

「森」

「何?」

「俺たち、何を変えた?」

「知らない」

「川原が会議室に入ったところまでは覚えてる」

「うん」

「そのあと、俺たちは帰った」

「うん」

「本当に?」

森は答えなかった。

佐伯が立ち上がる。

「会議室、見に行こう」

「やめろ」

「何で?」

「川原が死んだ場所だ」

「だからだよ」

二人は廊下に出た。

会議室はフロアの奥にある。

ドアには今も使用禁止の紙が貼られていた。

佐伯が立ち止まった。

「鍵、かかってる」

「当たり前だろ」

「……俺、このドア知ってる」

「何を?」

「内側からしか開けられない」

森が佐伯を見る。

「そんな構造じゃない」

「そうだったか?」

「普通のドアだ」

佐伯はノブに手をかけた。

鍵はかかっていなかった。

ゆっくり開ける。

部屋の中は暗かった。

机が一つ。

椅子が三脚。

そして、窓際にもう一脚。

佐伯が眉をひそめる。

「椅子、多くないか?」

「四脚だな」

「川原が使ってた?」

「いや」

「じゃあ誰の?」

森は答えなかった。

佐伯が部屋に入った。

「この机、昨日もあった?」

「当たり前だろ」

「違う」

机の上に、古い録音機が置かれていた。

会社の備品ではない。

佐伯が手に取る。

再生ボタンを押す。

最初に聞こえたのは、川原の声だった。

『二人とも、聞いてる?』

佐伯の手が震えた。

録音は死んだ日のものだった。

『俺が明日の朝、上司に話す』

森の声が入る。

『やめろ』

佐伯の声も続く。

『川原、考え直せ』

しばらく言い争う声。

そして、椅子を引く音。

川原が言った。

『分かった。じゃあ一人で残る』

そこで録音が途切れた。

佐伯が息を吐いた。

「ここまでだ」

「違う」

森が言った。

「まだ続いてる」

録音機から、小さな音がした。

カチッ。

再生が始まる。

今度は、川原の声ではなかった。

佐伯の声だった。

『鍵、閉めたよ』

森が息を呑む。

続いて森の声。

『これで誰も入れない』

佐伯が録音機を落とした。

床に転がった録音機から、最後の声が流れた。

『じゃあ、二人とも帰ろう』

佐伯が森を見る。

「……俺たち、帰ってない」

森の顔が固まった。

「そうだ」

「何?」

「俺たちは、あの日」

森は会議室の奥を見た。

「川原を残して帰ったんじゃない」

「……」

「川原が死んだあとも、ここにいた」

佐伯は何も言わない。

森が続けた。

「俺たちが最初に会社を出たのは、午前零時十二分だ」

「……」

「その前に、何があった?」

佐伯は頭を押さえた。

「思い出せない」

「俺も」

録音機が再び鳴った。

『まだ中にいる』

二人の声だった。

今度は録音ではない。

会議室の奥から聞こえた。

佐伯がゆっくり振り返る。

そこには、四脚目の椅子があった。

誰も座っていない。

それなのに、椅子だけがゆっくり後ろへ引かれた。

床を擦る音がした。

森が呟く。

「川原は、あの日ここで死んだ」

佐伯は首を振った。

「違う」

「何が?」

「川原が死んだのは、俺たちが帰ったあとだ」

「そうだった」

「違うんだ」

佐伯の声が震えた。

「俺たちが帰ったあとじゃない」

森が黙る。

佐伯はようやく思い出していた。

「川原が死んだのを確認してから、俺たちは帰ったんだ」

「……」

「俺たちは見た」

「何を?」

「川原が倒れてるところを」

「……」

「それなのに、警察には言わなかった」

森の顔が青ざめる。

「どうして?」

「分からない」

「違う」

森が首を振った。

「分かってる」

二人は同時に会議室の隅を見た。

録音機から、最後の声が流れた。

『二人とも、俺が死んだことにしたかったんだろ』

佐伯が小さく答えた。

「違う」

森も続けた。

「俺たちは……」

その瞬間、二人の間から声がした。

『違わないよ』

川原の声だった。

二人とも動けなかった。

声は続いた。

『だから、毎晩ここに来るんだろ』

佐伯がスマートフォンを見る。

通話履歴には、昨夜の記録があった。

午後十一時三分から、午前零時十二分。

その下には、一昨日。

さらにその下には、三日前。

毎晩、同じ時間に二人の番号が通話している。

森が震える手で画面を見た。

「……俺たち、毎晩ここに来てたのか?」

佐伯は答えなかった。

会議室の四脚目の椅子が、もう一度ゆっくり引かれた。

そして、録音機から佐伯自身の声が聞こえた。

『明日も二人で話そう』

森が呟く。

「明日も?」

佐伯は録音機を見た。

その声の直後に、川原が答えていた。

『違うよ』

しばらく沈黙が続く。

最後に、川原の声だけがはっきりと残った。

『明日からは、三人で話そう』

翌朝。

出社した社員が会議室を開けると、椅子は三脚しかなかった。

佐伯と森の席には、二人とも座っていた。

ただし、二人とも死んでいた。

机の上には、一台の録音機が置かれていた。

再生すると、三人の声が聞こえた。

その中で川原だけが、何度も同じことを言っていた。

『これでやっと、昨日の続きを話せるね』

篠原

「奇妙な話を聞かせ続けて・・・」の応募作品です。
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※画像はイメージです。

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