日本海海戦では東郷平八郎や秋山真之の活躍が知られていますが、実は最大の殊勲が歴史の底に埋もれてしまっています。
バルチック艦隊は進路は何処?
ロシアの旅順艦隊を撃破した大日本帝国連合艦隊の次の任務は、欧州から回航して来るバルチック艦隊の撃滅となりました。
そのためには先ずは敵艦隊との接敵が不可欠で、露艦隊の進路判定が最大の課題となりました。
ロシアの中国旅順要塞と旅順港は日本軍に攻略されたので、バルチック艦隊が極東おける唯一となった基地、ウラジオストック港を目指す事は確定的でした。
しかし仏領インドシナの港を出港した露艦隊の行方を連合艦隊司令部は見失なっており、ウラジオストック港への経路として、対馬海峡か津軽海峡を見極める必要に迫られました。
露艦隊の完全撃滅が唯一の目的である連合艦隊は、戦力的にほぼ同程度の露艦隊に対し全艦船で対戦せねばならず、艦隊を二分して両海峡を分担警護する事ができません。
また広大な日本海中央部での海戦では、撃ち漏らしてウラジオストックに逃げ込んでしまう敵艦が多くなる可能性もあり、逃げ回り難い狭い海域での捕捉が必要でした。
つまり二つの海峡のどちらかを予想して、全艦で敵を待ち受けるしか方法がありませんでした。
もし撃滅できず露艦隊が一部でもウラジオストックに入港してしまった場合、日本海軍は日本海の制海権を握ることができず、大陸で戦っている帝国陸軍に対する兵站に多大な障害が生じます。
日露戦争に勝利するためには、バルチック艦隊の完全撃滅が絶対的だったのです。
連合艦隊司令部の焦燥
バルチック艦隊はインドシナからウラジオストックへの最短距離の経路をとる、と判断した連合艦隊司令部は、露艦隊の対馬海峡通過を想定しました。
そして5月18日早朝に露艦隊がバンフォン湾を出航した情報を得て、その到着を5月22日~24日と予想して、艦船73隻を投入して警戒網を敷きました。
しかし露艦隊の消息が途絶えたまま22日が暮れた時、司令部は焦燥を深め始めました。
太平洋を回って津軽海峡を通過した露艦隊を取り逃がすという、国運を傾けるような大失態を犯したのかもしれないと疑心暗鬼に陥ったのです。
名参謀の誉れ高い秋山真之中佐でさえ極度の焦りを覚え、津軽海峡説に傾き始めていました。
通説では東郷連合艦隊司令長官が、揺るがぬ信念で対馬説を押し通したとなっていますが、事実では司令部は津軽海峡方面への移動を決意し、24日14時15分にその決定を海軍中央部に打電さえしていたのです。
たった一人の反対
25日午前、各戦隊司令長官、司令官、参謀長、および連合艦隊司令長官と司令部幕僚を集め、旗艦三笠艦上で最終軍議が行われました。
参集した将官のほとんど全ては艦隊の北方移動に賛同し、25日15時の発令を待つばかりとなりました。
そんな中、第二艦隊参謀長・藤井較一大佐ただ一人が対馬説を懸命に主張したのです。
幕僚の一部は今更のこの主張に憤慨激高し、主張の却下を要求したほどでした。
それに対し藤井大佐は淡々と、しかし力強く自説の根拠を説明します。
ウラジオストックまでの距離、平均速度、燃料・水・食料の搭載能力など、敵艦隊の知り得る限りの数値を入れた方程式で求めた対馬海峡到着は、
5月27日前後であるという独自の説を展開しました。
しかし軍議の大勢変化しません。
それでも藤井大佐は頑固に自説を主張し続けました。
一決しない軍議の採決は東郷司令長官に委ねられました。
東郷長官は「熟考せん」と一時席を外した後、「一両日待機」と決裁しました。
翌25日は情勢に変化はなく、焦燥の色ばかりが濃くなっていきました。
そして明けた26日午前、軍令部から電報が入りました。
「ロシア義勇艦隊5隻、輸送船3隻上海に昨25日入港す」。
日本が勝利へと走り始めた瞬間でした。
藤井較一
藤井較一(ふじい こういち)
安政5年(1858年)岡山藩生まれ。明治13年海軍兵学校卒。
薩摩閥濃厚な海軍にあっては傍流です。
寡黙で目立たない人物ではありましたが、その性は誠実そのもので、衆に抜きんでた強靭な意志力の持ち主であり、その上優れた計数能力が身上でした。
この気質と技能が完全に発揮され、見事に状況に嵌ったのがこの時だったのです。
その執拗な主張がなければ日本海海戦の日本完勝が無かった事を考えると、これは日本海海戦の最大の武勲と賞されてしかるべきものです。
藤井は戦後も寡黙と誠実さを持ち続けました。
彼が日本海海戦随一のこの戦功を語る事は一生ありませんでした。
そして一通の手紙の中に次の様に書いています。
「(津軽回航中止は)多少にても東郷大将の偉功をそこなうることありては相成らぬと考え、
決して公表することこれなく候・・」
※画像はイメージです。
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