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京都の寺院には「血天井」とは?

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京都の寺院には「血天井」と言われるものがあります
その寺院は三十三間堂のそばの養源院で、天井に赤黒い血染めの足跡や手の跡が点々とあり、その先には大きな血の跡もあります。
これは三河武士たちが自害をした跡で。この足跡は介錯をした者のものです。

「血天井」は関ヶ原の前哨戦といわれる「伏見城の戦い」で激しい籠城戦の末に自害した、徳川家康の家臣・鳥居元忠らが自害をした跡で、供養のために京都のいくつかの寺院に奉られたものだといわれています。

天下分け目といわれる関ケ原の決戦は1600年(慶長5年)9月15日に起こりました。
豊臣秀吉の死後、政治への影響力を強めていた徳川家康は、その前の6月18日に上杉景勝の謀反を征伐するとして会津へと向かいます。
そのときに2千人弱の兵とともに、伏見城の守りを託されたのが徳川家康の「三河衆」と呼ばれた鳥居元忠でした。

西軍は7月19日に4万の兵で「伏見城攻め」を開始、4万対2千の多勢に無勢で決着はすぐにつくかと思われ、伏見城の落城後に西軍は続けて関東へ徳川家康を追い、会津勢と挟み撃ちにするつもりでした。ところが「伏見城攻め」ではこれほど勢力に差がありながら、勝敗は10日以上着きませんでした。

伏見城に残された者たちのなかには降参を口にする者もいました。
しかし、鳥居元忠は
「少しでも長く敵を足止めし関東の徳川家康を守るために全員討ち死にするまで戦うのだ」
と決死の籠城作戦に出ます。

団結が崩れることのないよう、西軍に寝返りそうなものは城から出し駆けつけた援軍も城に入ることを断るほど覚悟していたようです。

攻防戦は8月1日まで続き鳥居元忠はその最後まで戦い抜きました。
62歳という年齢もありまた戦の傷で足が不自由だったため刀を杖のようにしている体です。
火を放たれた伏見城内で雑賀孫一との一騎打ちとなりました。

こうして伏見城は落城しましたが西軍にとって予想外の足止めとなり、鳥居元忠は徳川家康の背中を立派に守り抜いたといえます。
西軍は鳥居元忠の首を大阪京橋にさらしました。

「忠義の者を罪人と同じようにさらすとは」と夜中に盗んで葬ったというエピソードも残っている。
しかし、伏見城で討ち死にした人々の遺骸は関ヶ原の合戦が終わるまで2ヶ月以上放置されることとなりました。
床に染み込んだ血と脂のあとはいくら洗っても落ちなかったといいます。

それを供養するために寺院の天井として奉られたのが「血天井」です。

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