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日本最後の内戦「西南戦争」

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日本最後の内戦と言われる「西南戦争」。
この戦いにより、幕末の英雄・西郷隆盛は最期をとげます。
しかしこの戦いは決して西郷隆盛は望んだものではなく、ある種被害者というべき悲しき戦争でありました。
西南戦争について紹介します。

目次

概要

征韓論に敗れ、その賛成者の多くが政府を辞職し下野した「明治六年の政変」。
その筆頭が西郷隆盛でした。
西郷自身はあくまで自分の信念に基づく下野だったのですが、その出来事に不満を爆発させた明治政府内の薩摩藩士族たちが、西郷隆盛に続けと言わんばかりに一斉に辞職し西郷隆盛の後を追って薩摩へと下野します。

下野後

職を失い、いつ暴発するかわからない士族たちの行く末を案じて、西郷隆盛は鹿児島に私学校を作ります。この目的は士族たちに働き口を当てることにより反乱意識を薄れさせ、日々鍛錬することできたるロシアの脅威に備えるためのものでした。
しかし大久保利通率いる明治政府は、その組織を一種の武装組織とみなしており、同時に危険視しておりました。

そのため、鹿児島に密偵を送ったり、弾薬庫を占拠します。
その処遇に若き薩摩士族は怒り狂い、ついには政府保管の弾薬庫を襲撃するという暴動を起こしてしまいます。

西南戦争勃発

この知らせを聞いた西郷隆盛は「しもた!」と叫んだそうです。
西郷もこういった暴動を案じており、血気にはやる士族をなだめて来たのですが、ついに抑えきれない結果を招きます。
もはや一度ついた火は消せず、「おいの体をあずけもんそ(私の体をあすけましょう)」と言い、西郷隆盛は否応なく西南戦争へと巻き込まれていきます。

熊本城包囲・田原坂の激戦を経て、次第に薩摩軍は敗走するほど追い込まれていきます。その後延岡に渡り、最後は決死の覚悟で鹿児島の城山へと戻ってきます。
そのころには300名程度の兵力しかなく、西郷隆盛はこの城山の地を最期の地として戦いを挑みます。

西南戦争終結

戦いの中で死ぬことを覚悟して戦いへと出向きますが、政府軍の銃弾が西郷隆盛の腹を貫通し、その場から歩けなくなります。そしてこれで最期と悟り、別府晋介に介錯を頼みます。49歳という波乱に満ちた生涯でした。
その後同士は戦死あるいは自刃を果たしてしまいます。
ちなみに介錯後、西郷隆盛の首は別の場所へ持ち去られるのですが、戦後処理としてその死体確認の際、首のない胴体が発見されますが、その胴体だけで西郷隆盛のものであると判別されます。

これには理由があります。西郷隆盛は1862年に島津久光の命令に背いた罰として沖永良部島へと遠島処分を受けたことがあります。その際収監された檻は雨ざらし日ざらしの悪環境のもとにあり、島特有の蚊による伝染病を患ってしまいます。この症状は、睾丸部分が大きく膨れ上がるほどのものであり、発見された胴体もこの特徴を示しており、このことから西郷隆盛の同体であると判断されたのです。

※写真はイメージです。

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