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切腹が日本を救った?

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切腹は外国人が理解し難い最たるものでした。

目次

切腹の歴史

勇気や雄々しさを示すための割腹自殺である切腹は、紀元前の中国で記録されています。
また自らの潔白や正義を証明するための割腹も例があり、近年では文化大革命の中、罪を糾弾された共産党員が無実を示すために、大衆の前で割腹しました。
武士道を世界に広めた新渡戸稲造は、腹部に魂と愛が宿っているとする古来からの信仰が、切腹の根源だと考えていました。

日本のおいては、文献に残る最初の切腹は平安時代で、当時の合戦記などでも散見されますが、名誉ある死という意味合いはほとんどなかったようです。
それが、室町期に主君に対する殉死のために切腹が始まると、その意味が美化され始めます。

そして合戦が多発する戦国期には敗者の切腹が合戦終了の象徴となり、攻防双方の無益な人的損害を軽減させるための指導者の切腹が、尊いものと見なされるようになります。
こうして切腹が名誉ある死であることが武士の常識となり、同じ死罪でも斬首刑とは全く意味の違う刑罰となっていきます。

外国人が目の当たりにした切腹

戊辰戦争開戦直後、備前藩の行軍の列を横切ったフランス水兵を藩士が槍で傷付け、銃撃戦に発展する事件が起こりました。
そして折り悪く近くにいた欧米諸国の公使の集団にも銃撃が加えられて英米仏の警備兵が出動するなど、明治新政府と欧米との国際問題に発展します。

欧米側は日本側責任者への厳罰を強硬に要求し、日本側はやむなく、備前隊隊長・滝善三郎の切腹を決めます。
滝の切腹は欧米各国公使たち立会のもと行われました。
これが外国人が始めて目の当たりにした切腹でした。

滝は左から右へ真横に腹を切り裂き、さらにそのまま上に引き切ると、その刀を抜いて三方に置いた後、介錯のために自ら首を差し出したと伝わります。
外国公使たちはその凄惨さに慄き、この時の英国外交官・ミットフォートの本国宛報告によって日本のハラキリが世界を驚かせました。

英国公使パークスの所見

幕末から明治にかけて、英国を代表する公使として駐日したハリー・パークスは、来日前は中国に対する外交に携わっていました。
元々から強気で傲岸不遜な彼は、中国での経験も重なって、威嚇恫喝こそが東洋人との最善の接し方だとしていました。

そのパークスも滝の切腹に立ち会っていました。
切腹を見た彼は日本人の野蛮さを思うと共に、腹を自ら割くという最も苦痛の大きな方法による死で、主君や国に対する責任を果たすサムライの凄まじさに圧倒されました。
そして威嚇恫喝すれば思うようになった、それまでの東洋人とは違うと感じたに違いありません。

だとすると、単なる武力による脅しと行使だけでこの国を自由には出来ないと判断しても不思議はありません。
切腹は列強の支配から日本を守ったのかもしれません。

歴史大好きじいさんです。
日本人にしか理解できない、日本固有の習慣があります。
明治維新の開国とは、それが分からない外国人と日本人との相剋でもありました。

参照:伊藤博文 豊田穣 著
※画像はイメージです。

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