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防空壕は恋が花咲く楽しい場所

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だいぶ前に大正生まれの曽祖父(ひいおじいちゃん)から聞いた空襲の話です。

私の大正生まれの曽祖父は、とても元気な人で数年前まで生きていた頃は、入院先の施設でも暇さえあれば、看護婦さんや介護士さんなど若い女性に話しかけて、笑わせるのが大好きという人でした。

曽祖父の昔話というのはあまり聞いたことがないのですが、彼にとっては戦争というのは割と楽しい思い出だったようです。

「千葉の方から見ると東京が真っ赤に燃えていた日が何日かあった」と語る時は、ちょっと不謹慎な気もしますが明らかに嬉しそうで、若い兵隊同士では「東京が焼け野原になったら千葉が首都になるのか?」などと本気で話し合っていたそうです。

English: Ishikawa Kōyō日本語: 石川光陽 [Public domain], via Wikimedia Commons

曽祖父は千葉県の出身でしたので、兵隊として招集された後に地元から少し離れた、房総半島の先端部分の館山や千倉などで任務に当たっていたそうです。

館山には航空隊がありましたし、房総半島の最南端部分は大艦隊で米軍が襲来するならば、通過する候補の場所ですので東京への空襲が始まった当初は、かなり防空に関して警戒されていたようです。

しかし昭和も20年に入ると、もはや米軍の無限大の航空戦力を誰でも知るようになり、そもそも、もはや戦争と呼ぶような対等な力関係ではないことは、末端の一兵卒である曽祖父にも分かってきたようで、上からの命令が来ない限りは、曽祖父もひたすら防空壕の管理と修繕に勤めていたようです。

そんな中で曽祖父は勤労動員に来ていた曽祖母と出会って仲良くなるのですが、昭和20年と言うと若い男女が、特に兵隊が若い女性と話していたりするとすぐにビンタが飛んでくるような御時世でした。

曽祖父と曽祖母は挨拶をするだけでも小さいメモ紙を渡し合ったりして、しかも内容は「昨日は夕ご飯に魚が出て嬉しかった」などというもの。平成の私などからすると、よくそんな状況下で恋愛が成立するものだと思います。

しかし、携帯電話のない時代に若者時代を送った曽祖父からすると「いつでもLINEで繋がっているのなら恋焦がれる気持ちなんか生まれないだろう」とのことで、確かに言われてみれば、どんな邪魔が入っても若者の恋愛の障害にはならないことを思い出しました。

私は30代でしたから、60歳以上年上の人に「考えが古い」と言われ、ぐうの音も出なかったことを覚えています。

それに私を驚かせたのは、曽祖父は道徳に厳しかった戦時中に、国家の資源を使って堂々と自分のデート場所を作り上げてしまったことです。

曽祖母の家は代々、親戚一同かなりの数が南房総に住む旧家だったのですが、若い男性5~6人が全て兵隊に取られてしまい、地元に残っていなかったので、それ以上男手が取れることはありませんでした。

そこに目をつけた曽祖父は、曽祖母の家のものがかわいそうだと騒ぎ立て「戦争に行っているものの家を助けるのは国の一大事」などと理由をつけては、曽祖母の家に立ち寄っていました。

軍隊組織というのは大義名分がしっかりしていると少々の無茶は通ってしまうようで、普通は個人個人の家で防空壕などは持っていないのですが、曽祖父は「戦地に赴いている皆様の代わり」などと言いながら国の資源とブルドーザーを使って、曽祖母の家専用の防空壕を作り上げてしまったそうです。

その以来、空襲警報が鳴ると曽祖父は曽祖母の様子を見に行って、自分で作った防空壕に一緒に隠れるようになりました。
当然、防空壕の中には曽祖母の家族しかいませんので気楽に過ごせますし、2人きりというわけには行かなかったようですが、曽祖父にとっては空襲警報の音というのは心が弾むそうです。

防空壕の中などというのは狭いし暗いし、ヘタをするとムカデなどが出現したりするので、あまり気持ちいい場所ではないそうですが、そんな場所を心弾む場所に変えてしまった曽祖父の機転には脱帽します。

亡くなる直前まで自分の周りを、面白おかしくする工夫を常にしていた人でした。

※写真はイメージです。

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