太平洋戦争末期に登場して名機と称えられる旧海軍の戦闘機「紫電改」
その紫電改が作られる前に登場したのが「紫電」です。
紫電とはどんな戦闘機なのか紹介します。
水上機から陸上機へ
九七式飛行艇や二式飛行大艇を作った川西飛行機(現在の新明和工業)は太平洋戦争開戦後に水上機の需要が減るのではないかと考えていました。
陸上機を作る企業への転換を図ろうとしていました。
そこで水上戦闘機「強風」を陸上機の戦闘機に改造する計画を立てます。
川西はこの計画を海軍へ提案すると海軍は開発を承認しました。
これは局地戦闘機「雷電」の開発が遅れていた背景があったとも言われています。
簡単じゃない改造
海軍は後の「紫電」となる「強風」を改造した陸上機の1号機を1年で作るように命じていました。川西は1年以内に1号機を完成させました。
1号機が昭和17年12月に完成し量産は昭和18年8月に始まります。
1年と半年以上で「紫電」は量産にまで進みましたが簡単な事ではありませんでした。
プロペラが過回転やガタつきなどのトラブルを起こした事もありますが川西にとっての一番の問題は主脚の問題です。
主脚の出し入れでの不具合に車輪のブレーキの効きが悪いなど問題が幾つも生じた。
それは主脚が伸縮性という凝った構造にしたのも問題を増やす事になりました。
水上機メーカーである川西にとって車輪によって接地し長い脚で機体を支える主脚の経験は乏しい故に起きた問題だった。
そこへ誉エンジンの不調も重なってしまうのです。
実戦配備はしたけれど
「雷電」と零戦の後継機である「烈風」の開発が遅れている事で問題がある「紫電」でしたが「紫電一一型」として量産に入り部隊への配備も進められます。
量産の段階でも問題が解決したとは言えませんでした。
主脚の問題は変わらず「紫電」を装備した部隊では脚が折れて損傷する機体が多く出ました。
戦闘機としてはどうか?
川西は最高速度を653km/h出せると計算していましたが実際は583km/hと大きく下回る結果になりました。
これは誉エンジンの不調と主翼の下部に突き出た20ミリ機関砲のガンポッドが空気抵抗を強めたせいと言われています。
不評なまま消えゆく
「紫電」は昭和19年秋からのの台湾とフィリピンで戦います。
しかし機体の不具合での損傷に加えて性能もそこまで高いとは言えないせい「紫電」が活躍したと言う記録はない。
とはいえ新型機開発の遅れを「紫電」がカバーしたと言えます。
結果は失敗に近くとも川西が「紫電」の開発によって「紫電改」と呼ばれる「紫電二一型」への開発に繋げる事ができた意義はありました。
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