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父の海軍戦争体験

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父は大正生まれ、四国の山間部の農家の長男でした。
貧乏百姓から脱したい、学問で身を立てたいという望みがあったようですが、結局志願して海軍で終戦を迎えました。
父は戦争当時の話です。

目次

父の従軍歴

父は大正の生まれ、四国の山間部の貧乏百姓の長男として生まれました。当時の風潮として、「百姓の子は百姓」が当たり前の時代だったようです。
父の兄弟は男3人女3男で、男が3人いれば全員が農業では食べて行けません、そんな環境と長男としての義務感もあったのだと思いますが、学問で身と立てるという意識が強かったようです。

毎日の百姓仕事の後で勉強していると、祖父が「百姓に学問は要らん」と電灯を消してしまったらしいです。当時百姓の子弟が身を立てる道は「警官」か「軍隊」か「師範学校」であったらく、結局軍隊を選んで19歳で志願しました。

陸軍砲術学校を振り出しに、海軍に移り乗船が3度沈められたらしいです。
最後はレイテ湾海戦後内地へ帰港中台湾沖でアメリヵの潜水艦に沈められ、半日間泳いで助かったらしいです。
戦争の事は殆ど語りませんでしたが「あの時に、俺が死んでいればお前達は生まれていなかった」という話はよくしていました。

父の戦争あれこれ

海軍は、軍隊の中では食事情が良かったらしいく、戦艦に乗船した時に全員にビールがふるまわれたとか。
新兵の多くは飲酒の体験が無く酔っぱらい、海に落ちないようにロープで括られていたらしいです。

我が家でも、昭和30年代に初めて経験するビール、豚肉、カレー等があったのですが父は全部経験していました。
それほどに海軍は恵まれていたようです。

レイテ湾開戦は、日本の負け戦だったようですが内地に帰還後、しばらく孤島に隔離されていたらしいです。負け戦を国民に悟られないためでしょう。
その後父も回復したら今度は、飛行機の訓練を一時させられたようです。
今思えば特攻隊要員でしょうが「適正無し」ではねられたようです。パイロットは頭脳も身体能力も抜群でないと勤まらなかったようです。

戦後の父

結局、「学問で身を立てる」「長男としての義務」両方とも果たせなかった父。
戦後は「保安隊」に入隊しようとしたらしいです。しかし、試験の時間に間に合わずに入隊できませんした。

父によると「お母さんが時計を遅らせていたから汽車に間に合わなかった」と言っていました。
母は、時計をいじっては無いとのことであり、偶然の事であったらしいでが、母はもう他界して真実は解りません。

※画像はイメージです。

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