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薩摩藩主「島津斉彬」最後の謎

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幕末期の薩摩藩主 島津斉彬は卓越した手腕で薩摩藩の改革を行います。
そして上洛を目前にしてこの世を去ります。
島津斉彬の最後について考えてみたいと思います。

目次

島津斉彬

島津斉彬は1809年に生まれ、藩主就任前からその見識の広さが藩の内外に知れ渡り、文字通りの名君として期待されていました。
早くから西洋の進んだ文化を取り入れる事に積極的であったので、こうした姿勢から藩主に就いたら文明を取り入れる為、多額の出費がかかる可能性を心配し一部の勢力により懸念の声も上がる事があったそうです。
しかしながら藩主である島津斉興の長男という事もあり、幕府老中の阿部正弘の支持を取り付け正式に藩主に就任します。

藩主に就任した島津斉彬は西洋式の船の建設やガラスやガス灯など多くの進んだ技術を取り入れ、藩の近代化を進めると共に下級藩士である西郷隆盛や大久保利通など身分に関係ない優秀な人材を登用して薩摩藩の近代化を図りました。
たびたび日本に訪れる異国船を見て鎖国が現実的ではないと判断して、自身の養女である篤姫を13代将軍である徳川家定に嫁がせ外様藩でありながら徳川家と結びつきを強化、幕府の政策に影響力を及ぼしていこうと考えていきます。

徳川家定の後継者

やがて13代将軍徳川家定の後継者を巡り、水戸藩の徳川斉昭と共に、14代将軍に推す一橋慶喜(後の徳川慶喜)に対して血筋と伝統を重んじ、14代将軍に紀伊藩の藩主徳川慶福(後の徳川家茂)を推す井伊直弼とが激しく対立する事となり、島津斉彬の運命は急展開を見せていきます。

彦根藩主であり幕府の権威回復を目指す井伊直弼が幕府の大老職に就任するや、一橋慶喜を将軍にしようと動いた多くの人たちを処罰する安政の大獄が始まったのでした。
事態を知った島津斉彬は井伊直弼のやり方に異を唱えて行動を開始し、藩兵5000名を率いて上洛し、朝廷との折衝をおこなったのちに江戸へ赴き幕政改革を行うべく井伊直弼との対決を決意します。

1858年8月16日(新暦)に鹿児島城下の天保山で軍事演習を行うが、その観覧の最中に発病しそのわずか数日後の1858年8月24日(新暦)にこの世を去る事となります。

この世を去った原因

今でも島津斉彬がこの世を去った原因については諸説あります。
正式には当時、流行していたコレラというのが有力説ですが、兵を率いて江戸に赴く事で、薩摩藩が幕府と衝突してしまう事を恐れた勢力がお家の一大事を防ごうとして上京を阻止しようとしたという説。
他にも異母兄弟の島津久光の藩主就任を目指す、お由羅たちによる陰謀により命を奪われてしまったという説まである。

定説であるコレラ説に対する異論があるのは、あまりにも江戸幕府との緊迫化した状況下での突然の出来事である事に加え、以前からあった島津藩主の座を巡る久光派であるお由羅たちとの対立、さらには不可思議すぎる島津斉彬の子供たちの次々に起きた夭折などが理由と思われます。

いずれにしても、新しい資料などが出るまで島津斉彬の最後については謎が残る話といえます。

featured image:Hannah, Public domain, via Wikimedia Commons

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