幕末に活躍した「新撰組」は歴史ファンにとても人気があり、現在も映画や創作作品の題材にたびたび登場しています。
隊士といえば、近藤一、土方歳三、沖田総司、斎藤一、この辺りが有名どころでしょう。
そして人物たちと並ぶ、もしくはそれ以上の腕だったともいわれる「永倉新八」も新選組を語るに外せない人物です。
永倉新八は新選組の二番隊組長という危険な任務が多いポジションにつき、剣の腕は新選組の中でも最強と言われる人物でした。
そんな永倉新八についてまとめていきます。
永倉新八の生い立ち
永倉新八は、1839年4月11日に松前藩の士族の次男として生まれました。次男だったこともあり、8歳に神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門。18歳には本目録になり、19歳に剣術で身を立てようと脱藩してしまいました。
そして江戸本所の道場で剣術を学んだあと、25歳の時に市川宇八郎という人物と旅をしながら道場破りをしていたといいます。その旅で「試衛館」を訪れ、食客になりました。
なぜ新撰組に入隊したのか?
試衛館には常に50~60人の男たちが出入りしており、試衛館の道場主が「近藤勇」だったのです。
その他にも後に同じく新撰組の副隊長となる「土方歳三」、新選組の組長となる「沖田総司」「藤堂平助」「山南敬助」「井上源五郎」「原田左之助」などがいました。
そして1863年に幕府が将軍・徳川家茂の上洛警護のために「浪士組」を募集したために、近藤たちとともに浪士組に参加し京に向かったのです。そして京で新選組を発足したのです。
新撰組で最強というのは本当?
新撰組で永倉新八は、二番隊組長と撃剣師範を務めていました。
新撰組は十番まで隊がありますが、一番隊は近藤の一番弟子の沖田なので、神道無念流の永倉が二番隊組長なのはやはり剣の腕が見込まれたからでしょう。
新撰組の隊士だった阿部十郎は、「一に永倉、二に沖田、三に齋藤」といっています。また隊士に指導する「撃剣師範」を務めているところにも剣の腕が確かだったと想像でき、最強だったと考えられているようです。
そんな永倉新八の得意技は「龍飛剣」といい、下段の構えから敵の件を擦り上げ、返して切り落とす技だったといいます。
力強い打突を尊ぶ神道無念流と、龍飛剣の組み合わせにより永倉新八は最強と言われるようになったのです。
新撰組を一躍有名にした「池田屋事件」では、先陣を切って突入し沖田や藤堂が離脱する中、帽子が折れ左手親指を怪我するほどの激戦をし、4名打ち取っています。
江戸で近藤たちと別れる
池田屋事件で新選組の評判は上がり順風満帆でしたが、次第に隊長・近藤勇のわがままな振る舞いが目立つようになってきたそうです。そのため永倉は斎藤一ら数名と新撰組の脱退覚悟で近藤の非行五か条を会津藩主・松平容保に訴え近藤・土方と路線対立をしています。
非行五か条の内容は、近藤を局長とは認めるもののあくまで「同士」であり「家臣」ではないという主張でした。
結局この騒ぎで永倉らは脱退せず、新選組も幕臣として正式に認められています。
1868年の鳥羽・伏見の戦いでは、奮戦するも幕府軍が敗退。江戸に退却後、新選組は「甲陽鎮撫隊」と名を改め戦うも敗戦し江戸にもどっています。
江戸にもどった後は、近藤と意見が衝突し新選組を離れ、隊を作るも交戦中に会津藩の降伏を知り江戸に帰還しました。
幕末を生き残った後は・・・
帰還後は松前藩に帰藩が認められ、明治4年(1871年)には家老・下国東七郎の取りなしで藩医・杉村介庵の娘・きねと結婚し婿養子として松前にわたりました。
明治6年(1873年)に家督を相続して杉村治備と改名し、北海道小樽へ移りました。
そこで刑務所の剣術師範を務め、看守に剣術を指導していました。
退職後東京に戻っていましたが、再度妻子が薬局を開いていたために再度小樽に戻っています。
晩年のエピソードとして、映画好きでよく孫を連れて映画館に通っていたらしく、「近藤・土方は若くして死んでしまったが、自分は生きながらえたおかげでこのような文明の不思議を見ることができた」と感慨深く語っていたそうです。
また明治27年の55歳の時に永倉は抜刀隊に志願しています。
しかし「お気持ちだけ」と断られてしまいます。これに対し「元新選組の手を借りたとあっては薩摩の連中も面目丸つぶれかい」と自嘲したと伝えられています。
そんな激しい人生を送った永倉でしたが、大正4年に虫歯が原因で骨膜炎と敗血症を併発し、小樽で享年77歳で死去しました。
創作作品の中の永倉新八
新撰組が登場する作品に、永倉新八は登場します。
例えば漫画「ゴールデンカムイ」には、小樽に隠居しながら土方歳三に味方し、武器を調達したりする位置づけで登場しています。また、アイヌの隠し近海をめぐる刺青人皮争奪戦にも参加。見かけは更けているも剣の腕は衰えていない姿を見せています。
また、漫画「るろうに剣心」の北海道編でも登場しています。るろうに剣心では自らを「死にぞこない」と名乗り、剣心や斎藤一の前に現れていました。
そして「銀魂」では永倉新八と志村健を合わせた「志村新八」という人物が登場しています。キャラクター的には「ダメガネ」「ヘタレ」といじられるキャラで、どちらかというと脇役なポジションです。
しかし剣の腕は確かなようで、たまに活躍をしています。
最後に
ここまで永倉新八の半生と、以後の創作作品まで紹介してきました。たった5年間の活躍で、しかも「賊軍」という立場だった新撰組。
その粗野で有名だった集団が、ここまで有名になった理由は永倉新八の影響が大きいでしょう。
新撰組を含めて評価ははっきり別れますが、混乱の時代に剣を振るい一つの歴史を刻んだことは大きな功績といえるのではないでしょうか。その中でも数少ない新撰組の生き残りである永倉新八も、幕末という乱世を剣技で渡り歩いた人生が今も私たちの心を打つのかもしれません。
この記事で少しでも興味を持ってもらえたならば嬉しく思います。
featured image:北海道開拓記念館, Public domain, via Wikimedia Commons
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