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白髪町の仇討ち~大阪東町奉行所・与力宅に残された近世文書の不思議

大阪東町奉行所で与力を勤めた武士・八田家に残された近世文書「御仕置雑例抜書」に不思議な内容が残されています。「敵打ちの先例」という項目に、浅利喜三郎が白髪町の町人島屋久兵衛を討ち取ったとあります。

しかし、何故か討ち取った浅利喜三郎は土佐藩の蔵屋敷で「切腹仰せつけられる」と記されています。正式に認められた仇討ちであったにもかかわらず、何故切腹せざるを得なかったのでしょう。そこには、並々ならぬ由縁があったに違いありません。

目次

江戸時代、仇討ちは合法だった

江戸時代、理不尽に殺された主君や身内の仇を討つことは合法でした。大義があれば殺人も認められていたわけで勿論お咎めはなく、無念を晴らした武勇伝とされて世間からも英雄視されました。
しかし、いつでもだれでも仇討ちをしてよいわけではなく、事前に届け出が必要であるなど一定のルールも存在していました。

浅利喜三郎、仇討ちを届け出る

延宝三(1675)年、浅利喜三郎は大阪東町奉行所に兄である浅利四郎太夫の仇を討つ届け出をしました。喜三郎は16歳のまだあどけなさを残す土佐藩士だったといわれています。

当時奉行であった彦坂壱岐守は厚顔の少年武士をしげしげと見つめてはそのけなげさに痛く感心し、許可状を渡したといいます。そしてその四日後、風呂帰りの久兵衛を見事討ち取り、喜三郎は土佐藩士に付き添われてその旨を奉行所に届け出ました。奉行所は本懐を遂げた喜三郎を讃えつつ、一応詮議が終わるまで身柄は土佐藩蔵屋敷で預かるよう命じたのです。

討たれた久兵衛の妻、奉行所に異議を申し立てる

ところがその日のうちに討ち取られた久兵衛の妻が奉行所に現れ、一通の書状を提出しました。その内容は、久兵衛が浅利四郎太夫を殺害したのは事実だが、決して狼藉ではなく「妻敵討」であったということ。そしてことの詳細は土佐藩に問いただしてほしいと書かれたものでした。妻敵討とは、妻と不義を行ったものへの敵討ちです。

不義とは今でいう不倫の事で、密通とも呼ばれていました。江戸時代の法律「公事方御定書」では不義・密通を犯したものは男女とも死罪とされていたのです。死罪とは斬首して遺体は刀の試し切りにされ、供養も行われないというくらいの重罪です。また、被害者が武士であれば加害者を斬り殺すことも認められていました。大阪東町奉行所が事の次第を土佐藩に確認したところ、久兵衛の妻の申し出は正しいことが判明したのです。

久兵衛が浅利四郎太夫を斬殺した事実関係

久兵衛は元の名を七条市郎右衛門といい、土佐藩に属する地侍でした。彼の前妻と土佐藩の上士である浅利四郎太夫が密通をしたことが発覚し、その仇を晴らすため市郎右衛門は四郎太夫を斬り殺したのです。不義・密通を行っていた事実から市郎右衛門の前妻は死罪。自身は無罪放免と言いたいところですが、そうはなりませんでした。上士を地侍が殺すという上位のものへの仇討ちについて、合法とはいえ土佐藩としては簡単に事を治めるわけにはいかなかったのでしょう。

ここでいう上士とは土佐藩主山内氏に元々仕える家筋の事で、地侍とは断絶となった長曾我部氏の家筋のものを指します。当時の上士と地侍の反目という時代背景も影響したのでしょう。市郎右衛門は国外追放とされました。そこで大阪へ移り町民の姿となって身を隠し、久兵衛と名乗るようになったのです。その後娶った妻に書状を渡し、自分の身に何かあった場合には、奉行所へ差し出すようにと前々から申し伝えていたのです。

浅利喜三郎の一件は仇討ちではなく又敵討

仇討ちは認められていても、それに対する仇討ちは又敵討といって禁じられていました。奉行所での詮議の結果、「久兵衛こと七条市郎右衛門の殺害は仇討ちにあらず、又敵討である」とされ、浅利喜三郎には「土州(土佐藩)蔵屋敷にて切腹」が申し渡されました。

白髪町の仇討は少年の切腹で落着

白髪町の仇討は、少年武士が切腹するという事で一件落着となりましたが、なんとも後味の悪い結末といえます。そもそも、浅利喜三郎は又敵討になってしまうことを知っていたのでしょうか?切腹覚悟で仇を討つなんてことを16歳の少年ができたとしたら、天晴としか言いようがありません。

当時、土佐藩内の上士と地侍の反目もあったことから、周囲の上士連中からそそのかされた可能性も否定できませんが、残念ながらその背景を裏付ける文書は残されていません。真実は本人のみぞ知るということなのでしょう。

参考文献:「人物探訪日本の歴史 8巻 仇討と騒動」 暁教育図書(株)1983年
※画像はイメージです。

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