シベリア抑留のもう一つ地獄

飢えと寒さと重労働の地獄・シベリア抑留には、もう一つの知られざる地獄がありました。

日本赤化計画

敗戦後、北海道占領を米国によって阻止されたソ連は、ドイツや東欧で行なったソ連主導の政府樹立による社会主義国家建国を諦め、市民運動による日本赤化革命を目指しました。
そのための人材に選ばれたのがシベリア抑留者たちでした。

シベリア収容所での「民主運動」

シベリア抑留者に対しソ連が推し進めた、社会主義国家ソ連邦とその指導者スターリンへの讃美忠誠の強要教育は、収容所では「民主運動」と呼ばれました。
それには思想や言論の自由など当然皆無で、全ての抑留者に社会主義思想を持つことが強制されました。

収容所での地獄

その始まりは収容所内で発刊された日本語新聞で、そこにはソ連社会主義への礼賛、日本軍国主義への批判が書かれていました。

そしてその新聞の製作には抑留者が携わっていました。
彼らはいち早く社会主義を受け入たか、または苛酷な労働軽減や食料の特別分配を期待してそのフリをした人たちでした。

この動きは新聞読者の間にも広がり、ソ連側の指導もあって、収容所内での積極的な民主運動に繋がっていきます。
社会主義を受け入れない者は、毎日のように罵倒され反省を強要され、大勢から厳しい吊し上げが繰り返されました。

そればかりではなく、より苛酷な労働への配置転換や給食の減配など、ただでさえ生きるにギリギリの環境がさらに悪化して、それは死に直結しました。

また日々の言動監視のために相互監視の風潮も激しくなりました。
一歩間違えれば讒訴の結果、死に近づくかもしれません。
そんな中、ほとんどの人は生きるために赤化を受け入れ、他の人を糾弾し続けました。

帰還後の地獄

シベリア抑留者の日本帰還は1947年から始まりましたが、舞鶴港に到着する引き揚げ船の元抑留者が、「コミュニズム万歳」と叫んでいたり、ソ連の国歌「インターナショナル」を合唱しながら隊列で行進したりと、出迎えの日本人が驚く行動がしばしば見られました。
「民主運動」により本気で共産主義を信奉した人も少なからずいたのです。

しかしほとんどの人は帰国後、憑き物が落ちた様に共産主義を捨てました。
それは元シベリア抑留者に対する過酷な状況が帰国後も続いたからです。
共産主義に洗脳されているかもしれないという理由で、多くの会社が元抑留者を雇いませんでした。

当時の日本では労働運動が激化して労働争議が頻発し、その結果レッドパージが始まって、国内全体に共産主義否定の空気が強まっていました。
そんな中、元抑留者たちには、抑留者であったことがバレれないように戦々恐々として暮らす、地獄の日々が続いたのです。

歴史大好きじいさんです。
歴史上の出来事は様々な面を持っています。

参照
昭和史七つの謎 保坂正康 著
なぜシベリア抑留者は口を閉ざしたのか THE SANKEI NEWS

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