MENU

ムッソリーニ失脚にも繋がった連合国軍のシチリア上陸

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。

1943年5月、第二次世界大戦は連合国軍が北アフリカ戦線に勝利して終わった。
連合国軍は北アフリカの向こう、枢軸国のひとつイタリアへ侵攻する。

目次

1943年の欧州戦線

1943年の第二次世界大戦は枢軸国が主導権を失う事がはっきりした年です。
独ソ戦はレニングラードとスターリングラードをソ連軍が守り通し、クルスクの戦いでドイツ軍は大損害を受けて大敗
独ソ戦はもはやドイツ軍が勝てる事は無くなった。

北アフリカ戦線はアメリカの参戦もあって、ドイツアフリカ軍団をチュニジアに追い込み5月には降伏させた。
北アフリカ戦線の終結は連合国軍に新たな戦略を立てさせる。
枢軸国の主要な国であるイタリア本国への侵攻だ。
ソ連が連合国へ第二戦線を欧州へ作る様に求めていた事もあり、連合国は第一段階として地中海の島であるシチリア島へ侵攻する。

シチリア島上陸作戦

1943年7月10日、連合国軍はシシリー島へ上陸する。
米英の空挺部隊が降下し、シチリア島の東南からイギリス軍の第8軍(モントゴメリー大将指揮)が、南西からアメリカ軍第7軍(パットン中将指揮)が上陸する。
ドイツ空軍の空襲を受けながらも連合国軍はシチリア島に橋頭保を築いた。

枢軸軍は反撃を行い、ドイツ空軍の装甲師団であるヘルマン・ゲーリング装甲師団がアメリカ軍を海岸へ追い込む勢いを見せたが、連合国軍艦艇による艦砲射撃による援護を受けてアメリカ軍は踏み止まりドイツ軍を撃退します。
海岸での戦いを切り抜けた連合国軍は、内陸への進撃を始める。
パットンの第7軍は急進撃でシチリア島西部を制圧、22日には島の北岸にあるパレルモを占領します。
対するモントゴメリーの第8軍は東部のカタニア平原までしか進めなかった。これは第8軍の前にドイツ軍が多く展開していた為であった。

枢軸軍は東部のエトナ山など山岳地帯で抵抗をするものの、劣勢は変えられない。
8月3日から枢軸軍はシチリア島からイタリア本国への撤収を始めます。
連合国軍は枢軸軍の背後に上陸して包囲しようと試みますが、ドイツ軍が阻止して撤収作戦を成功させます。

イタリア本国上陸作戦

シチリア島を攻略した事で連合国軍はイタリア本国へ侵攻する道が開けました。
一方でイタリアでは政変が起きていた。
連合国軍がシチリア島に侵攻中である7月25日に、イタリアの指導者ベニート・ムッソリーニ首相を解任する決議が可決された。首相を解任されたムッソリーニは逮捕され、新しく首相となったピエトロ・バドリオは連合国との休戦交渉を極秘に進めます。

そんな中で連合国軍は9月3日にイタリア半島の南端にあるレジオ・デイ・カラブリアに上陸、9月9日にはサレルノに上陸します。
ドイツ軍は激しく抵抗をし、連合国軍の進撃は時間がかかる事となります。
9月8日にバドリオ政権のイタリアが降伏していたものの、ナポリより北にグスタフ線を敷いたドイツ軍は戦い続ける。
こうして欧州戦線はイタリア戦線と言う新たな戦場が出来たのです。

featured image:Signal Corps., Public domain, via Wikimedia Commons

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

どんな事でも感想を書いて!ネガティブも可!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次