かつての大日本帝国海軍の戦闘機と言えば、三菱重工業社の堀越二郎が生み出した零式艦上戦闘機、通称ゼロ戦の存在があまりにも大きく、近年もアニメ映画「風立ちぬ」で取り上げられ注目を集めた。
太平洋戦争の開戦劈頭、太平洋・インド洋と世界の海を股にかけた大日本帝国海軍の空母機動部隊の戦果の要因の大きなひとつにそれは数えられるほどで、日本人でゼロ戦を知らぬ人はほとんどいないだろう。
そんな日本側の攻勢期を支えた航空母艦の艦載機として他の追随を許さぬ知名度を誇るゼロ戦だが、戦局が守勢に回り日本本土へのアメリカ軍爆撃機の攻撃が激化すると、それに対抗する戦闘機が求められた。
そうした防空迎撃用の戦闘機を日本では局地戦闘機と呼称したが、そんな機体の中では高い認知度を持つと思われるのが、川西航空機が開発を手掛けた紫電改ではないだろうか。
紫電改は悪化する太平洋戦争の戦局の中で、最終版に戦列に加わった機体であると同時に、配備された部隊が精鋭の搭乗者を集めた飛行隊であった事もあり、一部では伝説的な存在となっている。
紫電改の開発までの経緯
紫電改は前述の通り川西航空機が制作を手掛けた局地戦闘機であるが、同社は2023年現在も新明和工業として存続しており、海上自衛隊が採用している救難飛行艇・US-2を製造する等高い技術力を継承している。
大日本帝国海軍において紫電改は、正式に採用された際の呼称は紫電二一型となっているが、搭乗者たちからは通称としてのその名やJ改と呼ばれる事が多く、公式な文書でも統一はされていない。
紫電改は川西航空機が開発を行った水上戦闘機である強風を、陸上の滑走路から運用する機体へと改めた事に端を発し、1942年4月から試作機の開発が承認され生み出された機体である。
但し開発速度を優先すべく強風の機体の流用が当初は前提とされたものの、その実現は困難で実質的にはコクピット周辺や主翼部分のみの流用に留まり、エンジンを始め多くが変更され紫電と名付けられた。
紫電は1942年末に試作機が完成したが新たに採用された誉エンジン、自動空戦フラップ、引き込み脚などに不調を抱え、また速度も想定をかなり下回ったが、ゼロ戦の苦戦から1943年8月に量産化が決定された。
翌1944年10月、海軍の第三四一海軍航空隊に配備された紫電は台湾において初の実戦に投入されたが、10機撃墜、14機被撃墜と期待された程の戦果を挙げたとは言い難い状態であった。
川西航空機は製造元として紫電の完成度に当然納得しておらず、海軍側の承認を得て並行して改良型の制作と行い、主翼の変更、胴体部分のスリム化と延長等を加え、これが1945年1月に正式採用され紫電改となった。
結果として紫電は1,007機、紫電改は415機が製造されたが、ゼロ戦のようにトータルで10,000機以上が製造された機体とは分母が違いすぎ、単純に比較するには用途も異なる事から無理があるだろう。
紫電改と戦果
紫電改はカタログスペックとしては全長9.376m、全幅11.99m、全高3.96m、重量3,800kgで、1,990馬力を発生する誉二一型エンジンによって高度6,000mで最高速度が時速610kmとされている。
因みにゼロ戦の後期型である五四型は全長9.237m、全幅11.00m、全高3.57m、重量3,150kgで、1,560馬力を発生する金星六二型エンジンによって高度6,000mで最高速度が時速572kmとされ、速度と出力に差が大きい。
しかし何といっても紫電改は強力な20mm機銃を翼内に4挺も内蔵する重武装が特徴で携行可能弾数も900発を数え、紫電の同2挺200発や、ゼロ戦五四型の同2挺250発に比して高い攻撃力を備えていた。
紫電改は1944年12月には実戦投入されたと目されているが、大々的な戦果として喧伝されてるものは1945年3月の第三四三海軍航空隊の防空戦が有名で、56機の同機が58機のアメリカ軍機を撃墜したと伝えられている。
但しこの戦闘におけるアメリカ軍側の記録では、不時着迄含めても14機の損失であったとされており、第三四三海軍航空隊が戦果を誤認したものか、誇張によって士気を高めようとしたのかは定かではない。
愛媛県の松山基地に配備された第三四三海軍航空隊には、太平洋戦争を生き抜いた熟練の搭乗員が集められ通称・剣部隊と呼ばれていた事もあり、優先して最新鋭機の紫電改が宛がわれた事は事実である。
紫電改に搭乗したパイロット達の多くは強力なアメリカ軍の戦闘機とも互角の戦いが可能と評価しているが、戦後著作で高名となった坂井三郎などからは、中途半端な機体とも揶揄されてもいる。
敵である連合国側から見た紫電改
第二次世界大戦において自由フランス空軍やイギリス空軍に所属し、通説では33機を撃墜したとも評されているフランス人のピエール・アンリ・クロステルマンは、自著の中で紫電改について言及している。
それによれば第二次世界大戦の中期以降の戦闘機の中でも、屈指の名機と謳われるアメリカ陸軍の1944年型P-51 マスタングの速度(時速約680km)に紫電改は互する性能を持っていたと紹介されている。
またマイク・スピッツの著作である「ザ・イラストレイテッッド・オブ・ファイターズ」においても、紫電改は高度5,800mで時速約669kmを発揮したと記述され、これは連合国が鹵獲した機体で確認した数値と述べられている。
こうした数値的な記述も合わせて当時の連合国側では、紫電改をして太平洋方面の戦いに投入された日本軍機の中でも高い能力を備えた機体と概ね評価されている事が窺える状況ではある。
但しアメリカのスミソニアン博物館の紫電改の解説では、日本全土に絨毯爆撃を敢行したアメリカ軍の戦略爆撃機・B-29スーパーフォートレスを迎撃するには、高高度性能に面で不足があったとも記述されている。
これは日本軍の航空機のエンジンには過給機が最後まで実用化されなかった事が大きな要因であり、紫電改のみが特段高高度性能に難点があったと言う物ではなく、全ての日本軍機に当てはまる技術的な課題だった。
客観的に見た場合の紫電改の実像
これまで見てきたように日本軍が実戦に投入した戦闘機と言う範疇で考えて見れば、紫電改は必要な速度と強力な20mm機銃を4挺も備える重武装を備え、当時の世界最高峰とまでは言えないが強力な機体だったと思える。
非力なエンジン性能を極限まで突き詰めて軽量化し、その上で格闘性能を高める事に注力し防弾面は切り捨てられたゼロ戦に対し、紫電改は燃料タンクには防弾装備を施すなど生存性にも配慮が成されている。
実写映画化もされた人気漫画の「アルキメデスの大戦」では主人公がゼロ戦の設計者である堀越二郎に対し、防弾装備ない事を理由にその不備を激しく糾弾するシーンが描かれたエピソードがある。
そこでは搭乗者の人命を軽視する堀越二郎と主人公との対比という構図だが、堀越二郎は海軍の仕様に従ってゼロ戦を設計・製造したと反論、主人公の場違いな正義感を論破すると言う名場面になった。
当時の日本軍が人命を軽視する非道徳的な組織であったと断罪するのは容易だが、搭乗者の育成にもコストがかかる事を冷徹に俯瞰出来なった事こそが、最大の問題ではないのかと個人的には思えてならない。
featured image:USAF, Public domain, via Wikimedia Commons
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