これは私がおばあさんから、小さい時から聞かされていました戦時中の話です。
私のおばあさんは8歳くらいの頃、神奈川県の川崎にいたのですが空襲が酷く、仙台に疎開してきたそうです。
けっして裕福な家庭ではなく、兄弟も8人いたので、母親に代わって弟、妹の面倒をみていました。
仙台の学校は田舎の方なので、周りはわらじに着物姿で方言もすごい。
彼女は都会育ちだったので、ワンピースにゴム靴で珍しかったのか、物を隠されたり言葉をマネされたりいじめがあったそうです。
食べ物の配給も全然なくて、ほとんどお米が入ってない雑草のお粥や、大根、さつまいものお粥、蛇やカエル、スズメなど焼いて食べたそうです。
両親は飴づくりで生計を立て、闇市で売るなどして、生計を立て彼女がそれを売ってくる役目でした。
手伝いが忙しく学校にはほとんど行ってなかったと。
子供だったせいか闇市を仕切っている親分(たぶんヤクザ)に可愛がられ、売り込みを手伝ってくれたり、食べ物を分けてくれたり、危ない時は助けてくれたり親切にしてくれました。
そのおかげか、飴はいつも完売でニコニコで帰ったそうです。
食べるものを買いに隣の山形まで長い時間かけて重いものを持って歩いたり、考えられないくらい貧しかったと言っていました。
仙台に爆弾が落とされた時、空をみたら真っ赤に染まっていたらしいです。
終戦後、駅前には孤児がいっぱいいて、泥棒が多かったり、女と子供はアメリカ軍に連れていかれるとデマが流れたり怖かったと。
近所にアメリカ軍が来てチョコやガムをくれたり、チョコを初めて食べた時、ほっぺたが落ちそうなくらい美味しかったそうです。
今の時代はあの頃が信じられないほど代わって便利になったとよく言っています。
※画像はイメージです。
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