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即身仏は仏教の修行なのか?

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即身仏について、少し調べた時、「究極の修行法」とあって、虚を突かれたような思いになり、ハテナ?と、首を捻った(誇張)。
即身仏が苦行である事は間違いないのだが、仏教は自殺を肯定していない筈だ。
「究極の修行」というのは、最も効果の高い修行といったニュアンスであり、何も身体へのダメージにおいて「究極」という事でもなかろう。
これはどう解釈すべきだろうか。

目次

自殺と捨身

釈迦の自殺に関する姿勢としては、『根本説一切有部毘奈耶』に描かれたエピソードがある。

ある時、釈迦は弟子に不浄観を教えた。弟子達は、自分の身体の不浄を嫌悪して、釈迦の留守に多数が集団自殺した。
帰って来た釈迦は、弟子の少ないのに気付き、阿難から経緯を聞き出した。
真相に大変怒った釈迦は、自殺や自殺幇助の禁止を戒律を定めたというものである。

この観点から言うなら、即身仏は単なる自殺であり、仏教の推奨する修行ではない。

一方、捨身という考え方は、肯定されている。
飢えた者の為や、供物などとして、自ら命を絶ち、肉体を与える行為である。
バラモン教ではウサギが自ら火に飛び込む話があるが、仏教でも身体を燃やす焼身や、「捨身飼虎図」のように飢えた獣に身体を与える話がある。
この2つの差は、その死の先に何があるかである。

すなわち、修行中の者の場合、死ねばまた輪廻のループに戻る。人間にならないと修行困難であるから、悟りへの道はずっと遠ざかる。一方、既に徳が積まれ、今生が終われば解脱に至るなら、今の肉体は交換の為の作業がすっかり終わった古いスマホのようなものだ。
欲しい人がいるなら、あげてしまってもさしたる問題はない。それが善行なら、最後の一押しの徳が追加され解脱に至る場合もあり得る。

即身仏は腑に落ちる

即身仏となった僧侶が修行者と解脱寸前のどちらに当たるかと言えば、修行者の立場であるのは間違いない。
解脱に至るのは非常にレアケースなので、ざっくりそう言っても、ほとんどが当てはまる。
つまり、仏教的にはやはり推奨されない。

だが、即身仏の動機は、単なる自殺というよりも、飢饉など民衆の苦しみを救う慈悲を目的としている事がある。
この時、一定のオカルティックな合理性が表れる。
それ故に、即身仏は尊敬される。

直観的に「腑に落ちる」と言って良い。
これは、論理で構成される仏教より、日本神話や民間伝承の感覚に近い。
すなわち、生け贄に関する素朴な尊敬と感謝である。
日本神話には、奇稲田姫や弟橘媛を始め、自らを捧げて他を救うというモチーフがしばしば見られる。
この価値観は、社会を築く人間にとって必須のものだ。個は滅びるが、集団は生きるため、結果として群としての遺伝子は存続する。
この土着の生け贄観が、仏教に結び付いた結果として表れたのが、即身仏だろう。

即身仏のパワーとは

この時、即身仏にオカルト的なパワーはあり得るのか。
仏舎利に対する扱いを見れば、仏教にも聖人の死体を崇める偶像崇拝的要素はある。
とはいえ、神格としての釈迦が、自分の教えに真っ向刃向かうものにパワーを与えるかといえば、考えにくい。

一方、生け贄としてのパワーはどうか。
生け贄は禍をもたらすものへ贄を献げ、怒りや飢えを鎮める、非常に打算的な行為である。
聖なるものを讃えるために捧げる場合もあるが、こちらも加護を求める取引や契約に類する。
この時、捧げられた命は、相手に所有権があるのだから、返っては来ない。
残った即身仏部分はチョコの包み紙のようなものだ。香りぐらいは付いていても、何か新たなパワーが付与される訳ではない。

だとすると?

だとすると、何の力もないか。

そうではない。生け贄によって救われたと信じるもの、それを尊敬する者の感謝や信仰という形で、精神のエネルギーは集中する。
つまり、即身仏は信仰がパワーに直結するタイプの、単独の神格と考えれば良いだろう。

尚、仏教では、こういうやるせない人々の苦しみを救うポジションがいない訳ではない。
救済の総合商社 地蔵菩薩である。彼ならば、即身仏とも効果的なバディを組めるだろう。

※画像はイメージです。

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