第二次大戦を通して、正確無比な欧州情勢を送り続けた帝国陸軍情報将校がいました。
正確無比な情報
英国本土上陸作戦とソ連侵攻
スウェーデン公使館付き陸軍武官 小野寺信(おのでら まこと)大佐は、ドイツの英本土上陸作戦の情勢を探っていた。独自の諜報網からは本作戦の成功を裏書きする情報は集まらず、それよりもドイツのソ連侵攻に関する情報が飛び込んできた。
その情報の確度は以後益々高まったが、小野寺以外の在欧武官たちはドイツの英本土上陸作戦成功を主張し、独ソ開戦には全く否定的であった。
しかしドイツのソ連侵攻は突如始まった。
快進撃するドイツがモスクワに迫る中、小野寺は今度は冬季のドイツ軍苦戦の情報を得る。
ドイツの躍進に便乗するように、軍事力を背景にした拡大政策を進める日本参謀本部に対し、ドイツ勝利をあてにした対英米開戦は絶望的として、「絶対に日米開戦不可也」との30通もの電報を小野寺は発信した。
だか参謀本部をこれを無視した。
ヤルタ密約と和平工作
1945年8月、ドイツ降伏後の戦後処理構想について、米英ソ三ヶ国首脳によるヤルタ会談が行われた。
この会談では、日ソ中立条約により中立であるべきソ連の対日参戦も、英米の要請により秘密協定として結ばれた。
ヤルタ会談直後、小野寺は独自ルートでこの密約情報を入手し、直ちに参謀本部宛打電した。
ソ連外交の本質を熟知していた小野寺は、この対日参戦が日本の敗北と共産化に直結すると憂慮したのだ。
しかし参謀本部はこれを握り潰した。
日ソ中立条約を頼りにする日本指導部内では、ソ連の仲介による和平工作案が論議されていたからだ。
小野寺はその豊富な人脈を駆使し、中立国スウェーデン王室からイギリス王室のルートで、和平交渉を本格的に模索し始めた。
しかし指導部では対ソ工作が本決まりとなり、大本営梅津参謀長からは小野寺の活動が勝手な和平交渉だという、叱責まがいの電報が送られて来た。
ところが8月8日のソ連の対日宣戦布告で、思惑が完全に外れた参謀本部から、「帝国政府は国体護持を最終目的に外務交渉を始める。
貴官は任地にて最善を尽くせ」、との電報が10日付で小野寺に送られて来た。
小野寺は即刻行動を起こしたが時すでに遅く、8月16日、昭和天皇のポツダム宣言受諾の玉音が放送された。
小野寺の諜報網
1936年、小野寺信が駐在武官として初めて赴任したのは、北欧バルト海沿岸の小国ラトビア。
この国は世界初の社会主義国ソ連と直接国境を接しており、欧米諸国の情報士官が多数駐在して対ソ情報収集の拠点となっていた。
小野寺は彼らと親しく接触し人脈を築きながら、エストニアと組んで対ソ情報網を組織するなど諜報活動を精力的に行った。
その活動の中で何人かの外国武官たちと小野寺との付き合いは、家族ぐるみにまで深まっていった。
彼らの祖国ポーランドやバルト三国が後にソ連・ドイツに併合されるに伴い、彼らの人生も蹂躙され激変し、小野寺はそんな人々の保護や経済的援助を行って、敵味方や国家の枠を超えた個人的信頼を深めていった。
一旦帰国した小野寺が再びスウェーデンに赴任した時、彼らとの親交が大いに役立つことになる。
日本指導部と駐在武官や外交官の多くは、ドイツ・ソ連の表面的活動だけでこの二国を評価し、それに基づいた情報収集分析を行った。
それに対し小野寺が信頼関係を築いていた情報士官たちは、戦争の本舞台である欧州の裏側で活動しており、そこで得た重要で正確な生情報を小野寺に提供し続けたのである。
諜報の世界は謀略、破壊工作、暗殺など、裏切りと騙し合いの世界である。
そんな世界にありながら、一方で小野寺は誠実な人間関係も構築していた。
小野寺が常に正確無比な情報を得られたのは、諜報世界にはおおよそ似つかわしくない、人と人との真の信頼関係によるもであった。
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