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シベリアから帰ってきたじいちゃんの話。

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私の知るおじいちゃんは私たち孫に優しくて、記憶力や知識に優れた人でそして豪快に笑う人でした。そんなおじいちゃんの話を、大人になってふと聞いたときの話です。

彼は15歳くらいのころ戦争に巻き込まれました。大人も召集されましたし、彼のようにまだ若い人たちも戦場に駆り出されました。
満州へ彼も行きましたが、ちょうど戦争が終わりかけのころ。彼は実際の戦場には出なかったようです。

残った日本人のいくらかはシベリアへ連れて行かれました。
私は恥ずかしながら「シベリア送り」の由来を初めて知りました。そして彼も、捕虜として連れていかれました。

刑務所のようなところで、重たい荷物を担いで運ぶような仕事をさせられました。仕事が不十分だと、容赦なく鞭が飛んできました。
膝が悪いおじさんが重たい、痛い、運べないと膝をついていたのを見て、当時若かった彼は「おじさん、僕が運ぶよ!」と二人分運んだりして感謝されたと話してくれました。

食事はパンとスープ。仕事ができると少し増えたようですが、年老いた人など仕事がうまくできない人はパンだけのこともあったようです。
施設は何か所かあって、一か月ぐらいごとに移動させられました。中にいる捕虜で結託して反乱を起こさないように、絆ができないよう引き離すんだそうです。

中国人もそれなりにいましたし、日本人もそれなりにいました。そこで中国人の友達もたくさんできたよと笑っていました。
彼は若かったので、中国語もロシア語も聞いているうちに覚えたようです。「俺がそこで一番若かった」そうです。
「お前面白いな、通訳しろ」と看守に言われて少し通訳の仕事もしたと、看守と冗談を言い合ったりもしたと語る彼はどこか楽しそうでした。

帰国するときになって、日本政府からは「仕事もきちんと用意してやる。安心しろ」とお墨付きをもらって帰国しました。
いざ帰ってみると、そこは小さな町ですから、ロシアから戻った彼は、あちらの主義に染まっているに違いないと、それはそれは冷たくされたそうです。
同じ日本人ばかりの、自分の生まれ育った町であるというのに。

どこへ行っても冷たい視線を受けることは、つらかったとこぼしていました。
彼はそのあと、身の元を気にしない優しい棟梁の元で大工となり、自宅を自分で作り気の利いた妻を伴侶としてそして子供ができ、孫ができ、今に至ります。

何年か前に満州戦争に際して功労の意を表した、くるくるとモチーフがまわり、きれいなメロディを奏でる時計をいただきました。
満州から帰ってきた人たちに送っていた年賀状が、また喪中が来たと一人ひとりいなくなっていくことを、諦めとともにさみしがっていました。

彼はそれから何年かあと、病気を患って亡くなりました。
いつ死んでも大丈夫なように写真を撮るぞ!と意気揚々と写真館で撮った立派な写真が遺影になりました。

笑顔が素敵で、声が大きくて、優しくて豪快な人でした。彼の人柄はどこにあっても、人種や国を越えてどこにあっても人を惹きつけていたと容易に想像できます。
もっともっと話をしておけばよかった。そんな彼の存在をだれかに聞いてもらう機会があってよかったです。

※画像はイメージです。

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