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ある特攻隊員の本音

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私が大学生の頃、哲学の教鞭を執る1人の講師がいました。名前をk先生としておきます。

K先生は髪は真っ白で、肌も完全に老人のそれでした。しかし話口調も身のこなしも颯爽としたもので、若々しい印象を受けました。

そんなある日、先生は戦時中の話を始めました。

戦時中のK先生は航空兵、偵察機乗りでした。
役割は機銃手で、追っ手の戦闘機に目を光らせる日々を送っていたのです。
しかし戦争が長引くと、特攻が始まるようになります。特攻隊の建前は志願制ですが、声を掛けられて断られる物でもありません。K先生もまた配属させられました。

特攻隊基地での生活は常軌を逸した物でした。新しい日を迎えると、部隊の誰かに出撃命令が下ります。「これら死にに行け」というに他ならない命令です。K先生は、こう例えました。「晩飯の度に隣の席の奴がいなくなる生活」。

恐怖心は人の精神を蝕みます。K先生は逃れられない運命と恐怖心から逃げ回るために、酒を拠り処にするようになりました。物資不足の状況下でも、特攻隊員は優遇して貰えたのでしょう。酒はふんだんに飲めました。毎日毎日、酒、酒、酒。

恐怖心に精神を蝕まれた先生は、今度は酒に肉体を蝕まれました。操縦どころではなくなり病院で過ごす事になりました。
しかし、酒毒は克服出来ても。真の問題が消え去る事はありません。同じ事の繰り返しです。再び部隊へ戻され。再び死の順番を待つだけ。その間にK先生がする事もまた、同じ事の繰り返しでした。

再び酒浸りになったK先生は、もっとひどい状態になりました。完全に意識不明の危篤状態にまでなり、何日も生死の境を彷徨う程になりました。

その状態は長く続き、意識不明のまま、日を迎えました。8月15日を。

「だから、玉音放送は聞かれへんかったんや」
K先生は笑顔で語りました。意識が戻って事情を聞かされた時、頭に浮かんだ言葉は、ただひとつでした。
「助かった」

「アメリカに対して、『この野郎』とか思うようなったんは、GHQがうろつく様になってからやな。あん時は、ただただ特攻行かんで済んだんが嬉しかったわ」

K先生は悪びれもせず、笑顔で私達に語ったのです。

大阪ミナミ出身。
父親は高射砲兵訓練生。母親は小5で本土決戦用に薙刀の稽古をさせられる。大叔父は回天操縦士訓練生。
中学時代通っていた塾の講師の父親は義烈空挺隊班長……などなど戦時体験ネタには事欠かない環境で育つ。
好きな戦争映画は『Uボート』『2世部隊』。
好きな戦争関連書籍は『空のよもやま物語』『戦艦武蔵のさいご』

※画像はイメージです。

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