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戦後はお好み焼き屋で生き延びた

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私が幼い頃、父方の祖母に聞いた話です。
終戦後すぐに祖父が亡くなり、祖母は女手一つで父と父の兄、姉を育てた・・・とのことでした。

祖母は身体が弱く戦地に行かなかった祖父を、疎開先で流行病で亡くしました。
その後終戦、故郷である広島に子供たちを連れて帰った・・・とのことです。

広島に帰り、まだ小さかった父を背負い、近所の人に助けられながらバラックや木材で家を建てたました。
終戦後も貧困はひどいもので、最初は農家の手伝いをして、その日の食料を受け取って生活をしていたそうです。

ただ、このままでは育ち盛りの子どもたちが飢えてしまう、と危惧した祖母はお好み焼き屋を経営することにしました。
当時広島では、小麦粉で簡単に作れるお好み焼き屋をする人が多かったようで、関西は今でもお好み焼き屋が多く食文化の一つになった要因の一つといっても間違いないではないでしょうか?

最初は友人の家を手伝い、資金を貯めてから自分のお店を持ったのです。
子供たちは学校には親戚の援助で通えていましたが、もちろん勉強よりも生活が優先の時代、親子で助け合ってお店を切り盛りしたようです。

父は一番小さかったので、小さなお好み焼きの店舗内でお客さんに遊んでもらったり、お昼寝をよくしていて、父の姉や兄はよくお店を手伝ってくれたようです。
子ども達も頑張ってお手伝いをするお店は、貧乏ながらも明るい雰囲気で、お客さんも常連さんが多かったと話していました。

祖母はお客さんによくモテたそうですが、皆さんから愛してもらっており、特定の誰かと恋仲になることもなく、純粋にお店と祖母達のささやかな生活を応援してもらっていました。

父が小学校に入る頃になると、生活も落ち着いてきて、子どもたちも勉強や遊びができるようになったそうです。
その時期に子どもたちと一緒に、お弁当を作ってピクニックに行ったことがあるようで、そのように余暇を楽しめるようになったことがとても嬉しかったと話していました。

※画像はイメージです。

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