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機銃掃射から生き残った祖母

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私の祖母が結婚前、まだ独身だったときのお話です。
祖母は神奈川で漁師の娘さんでした。

太平洋戦争が始まって半ばくらいの事です。
父親と兄が戦争に行ってしまったので、まだ娘さんだった祖母が小舟を漕いで、魚を釣って市場や街で売って暮らしていました。

祖母は以前から、父親と一緒に海に出て釣りをしていましたので漁船を出す事が出来ます。
しかし、女一人では船を動かすのは大変なので、岸から釣れなかったら時だけ小舟を出して、湊から海にちょっと出たくらいのところで釣っていたそうです。

と、そんなある日、いつものとおりに船を出していると、岸の方から「ウウウウウウ」と空襲のサイレンの音でが聞こえました。
東京の方に空襲に来たのでしょう。

母が住んでいた場所は東京には近いですが、空襲の経路からは外れているので、サイレンが聞こえてもあんまり慌てる必要はありませんでした。
東京にもっと近い所ならサイレンが聞こえたら、一旦は一番近い砂浜を目指して避難するわけです。

そして祖母もそう言われていたのですが、今までは米軍機が来たことがないので、まあ、来ないだろうと思って、祖母はそのまま釣りを続けていたのです。
と・・・普段効かない轟音が・・・・

ふと上を見ると、黒い飛行機がこっちをめがけて飛んでくるのです。
おばあさんはびっくりして、とっさに船の底にしゃがみこんでしまいました。

普通は、そのまま海に飛び込んで逃げたらいいんですけど、そんな時はもうそんな事に頭が周りません。
しゃがむのが精一杯です。

と、船の両側をぱん、ぱん、ぱん、と水しぶきが・・・飛行機の機銃のようです。
そして、飛行機がそのまま、飛んでいきました。
戦闘機の機銃は羽の左右についているので、幅より小さい船は間をすり抜けて当たりませんでした。

帰ってから、祖母のお母さんが真っ青な顔してとんできて、二人して腰を抜かしたそうです。
そのあと、近所のオジサンやら、いろんな人から叱られて、それから戦争がおわるまでは、一人で船に乗ってはいかんときつく言われたそうです。

しかしそうなると、お金が入ってこないので生活が出来ません。
それを漁協の人に言ったら、市場の掃除や建物掃除、お茶出しなんかの仕事を言われていたそうです。

それからしばらくして、戦争が終わって父親と兄が帰ってきました。
祖母は米軍機に追っかけられた事は二人には黙っていたそうです。
それは、いうとまた叱られるから・・・。

父親も兄も、普通に年取って亡くなったので、それから、時々孫にそんな話をしてくれるようになったそうです。

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