T34の進撃を打ち砕いた重砲兵部隊(1)

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T34と戦った関東軍野戦重砲兵第20連隊第1大隊第2中隊の記録。

昭和20(1945)年8月のソ連軍満州侵攻。終戦間際の弱体化した関東軍はまともな反撃も出来ず、ほとんどは赤子の手をひねるように蹴散らされる結果となった。これは、有力な部隊の多くが南方戦線に引き抜かれてしまった結果、関東軍は戦線縮小という方針を取らざるを得なくなり、さらに軍上層部の戦況判断がソ連軍の侵攻のスピードにまったく追いつかなかったからである。

このような戦線崩壊とも言える状況の中、最前線に取り残された重砲兵部隊が直接戦闘でソ連軍のT34と対峙し、多くの戦果を挙げている。それは怒涛の様なソ連軍の侵攻作戦の中では極めて部分的な抵抗ではあったが、本来は後方からの間接支援射撃を任務とする重砲兵部隊が、直接射撃で多数のT34を葬った稀に見る貴重な記録でもあった。

■ T34

その部隊とは、関東軍第5軍に属する野戦重砲兵第20連隊である。この部隊は最後まで南方戦線に引き抜かれる事なくソ・満国境から100キロほど後方の牡丹江に展開していた。
連隊長は松村清大佐。その戦力は96式15センチ榴弾砲(15榴)を4門装備する中隊が6個、計24門で、その他指揮班・段列中隊からなり、総員2300名。すべて機械化された車両編成で15榴及び弾薬車は98式6トン装軌式牽引車が牽引した。

96式15センチ榴弾砲は砲弾重量31キロ、最大射程は12000mであるが最も効率よく威力を発揮できる有効射程は7500m前後だった。
砲の威力は強力だが、砲兵部隊の自衛用の火器としては99式短小銃と牽引車に備え付けの軽機関銃があるだけで、最前線の戦闘に巻き込まれると全く脆いものである。
このような野戦重砲兵部隊がいかにしてソ連軍のT34を迎え撃ったのか、当時この部隊の第二中隊で実際に戦った兵士の手記からその戦闘の様子を知ることが出来た。

ソ連軍が満州になだれ込んできたのは8月9日未明の事である。関東軍では偵察機による戦略偵察によってシベリア方面のソ連軍の動きをつかんではいたが、日ソ不可侵条約もあり、侵攻してくるにしても秋以降だと判断した矢先の事だった。

■1940年(昭和15年)満州、九八式六屯牽引車 ロケによって牽引される九六式十五糎榴弾砲と前車(野戦重砲兵第7連隊)

9日夜明け前にはソ・満国境線沿いの広い範囲で国境守備隊との連絡が途絶し、各部隊はソ連軍の大規模な侵攻作戦が始まっている事を察知、それぞれの後方司令部に向けて状況報告をして戦闘指示を待ったが中央からは何の音沙汰もない。ようやく「ソ連軍侵入、戦闘配置につけ」の命令が下ったのは9日の正午前だった。関東軍は初動の8時間を混乱の中で浪費し、その間にも前線の部隊は状況も知らされないまま戦闘に巻き込まれ、各個に撃破されて行ったのである。

野戦重砲兵第20連隊は命令受領前に準備は進めていたものの、身軽な歩兵部隊とは違い、重砲兵は砲撃準備となればまず砲を隠ぺいする壕を掘らなければならない。さらに弾薬の積み込みにも多大な労力と時間が要る。翌8月10日、ようやく牡丹江市街の前面に布陣を終わった所で、斥侯の報告からソ連軍が早くも牡丹江北東40キロのムーリン市街にまで迫ろうとしている事が分かった。ムーリンは国境から60キロも手前の町である。ソ連軍は予想よりもはるかに速いスピードで押し寄せてきていたのだった。前線部隊はいったいどこで何をしているのか、全く状況が分からない中、連隊は直ちに陣地を撤収、ムーリンに向けて前進を開始した。

■ 元・戦車第26連隊所属の九七式中戦車(新砲塔チハ)

そもそも重砲兵連隊は歩兵部隊の後方に布陣し前線の戦闘を砲撃によって支援するのが任務だが、この日の連隊の行動は全く単独の丸裸であり護衛する兵もない。おまけに司令部からの敵状況の説明も何もない。そこで連隊長は偵察隊をトラックに乗せて街道を先行させ、ムーリンの状況を偵察させることにした。

ムーリン手前の小高い丘の上から偵察隊は初めてソ連軍の大軍を発見した。ムーリンの町の向こう側には黒々とした戦車が続々と集結しており、その戦車の大きさは今まで見たこともない巨大なものだった。日本の97式戦車の倍は優にある。
今は遥か地平線近くに集結しているこの怪物の様な戦車群が、やがて目の前のムーリンの町に突入してくるのである。


Writing by  ヒデ
あまり知られていない実話の戦記を探すのが趣味です。

参考文献 旺史社 刊 鈴木武四郎 著「東満・北鮮戦塵録」
eyecatch credit:作者 Imperial Japanese Army [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由

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