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T34の進撃を打ち砕いた重砲兵部隊(2)

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T34と戦った関東軍野戦重砲兵第20連隊第1大隊第2中隊の記録の続きです。

9日の真夜中に侵入してきたソ連軍は、10日の夜には照明弾を打ち上げるだけで全く前進してこなかった。

ムーリン手前にまで前進した野戦重砲兵連隊の第一中隊と第二中隊は、ソ連軍が止まっている間に射撃適合地を探すために周囲の丘を偵察。
第一中隊はムーリン市街から3キロ程度手前で、第二中隊はその2キロ後方の丘に布陣することにした。今度の戦闘は後方からの支援射撃ではなく、射距離2000メートル前後での直接射撃であるので、壕は掘らず砲を露出したまま射撃することになる。

そして一回射撃を終えたら素早く陣地を撤収し、次の射撃適合地へ移動するのである。敵に陣地を発見されたらそれで終わりなのだ。
そのため射撃適合地はあらかじめ4~5か所は選定しておかねばならない。

連隊の兵士たちはソ連軍戦車との直接戦闘の訓練は受けてはいたが、ソ連軍の戦車が一体どんなものなのかは全く知らされていなかった。
軍上層部ではT34の存在は知っており、その威力も十分承知していたが、それを兵士に伝える事で逆に戦意が喪失する事を恐れたのである。それほどT34は日本兵にとっては未知の恐ろしい存在であったと言える。
そのT34の大集団が今まさに兵士たちの目の前に現れたのである。

8月11日早朝、いよいよT34の集団がムーリンの町に侵入、街の目抜き通りを通過して牡丹江に向けて、つまりこちらに向けて前進して来た。
まず最初に第一中隊が接敵、後方にいる第二中隊の位置からはその様子は見えないが、砲声の応酬と共に丘の向こうに太い黒煙がいくつも立ち昇るのが見えた。恐らく撃破されたT34のものであろう。
やがて数時間後、T34の隊列が丘の裾を回り込んで、待ち構える第二中隊の目の前2000m先の街道に姿を現した。90式野砲ほどもある太い砲身を振りかざしながら周囲を警戒しているが、幸いな事に恐れていた随伴歩兵の姿が無い。

第二中隊の4門の15榴はすでに砲弾を装填、ゼロ距離射撃のために最も火力の弱い5号装薬で街道に照準を合わせて射撃命令を待っている。1門ずつに狙う戦車を割り当て、最初は2・6・8・11番目の戦車に各砲が狙いを定めて、ついに射撃を開始した。

最も弱い装薬のため、砲の後ろに立っていると発射した砲弾は黒い球となって着弾するまでよく見える。一発目の砲弾は先頭から2番目のT34の上をかすめて飛び越え隊列の向こう側で炸裂したが二発目は見事に命中し、そのT34は原型を留めないほど破壊された。それ以後は、各砲一分間に3発の発射速度を保ち、最初狙いを定めた4両をすべて破壊。

■90式野砲
作者 kevin ryder from southampton, england (field gun in romsey park) [CC BY 2.0 ], ウィキメディア・コモンズ経由

大混乱に陥った敵の縦隊は、手あたり次第に盲目射ちを始めたが、まだこちらの陣地は発見されていない。だが、同じ陣地に長居は絶対無用なので敵が混乱しているうちに陣地を撤収、次の射撃適合地へ移動する。

射撃体勢にあった重砲の駐鋤板(ちゅうじょばん)を抜き、砲を牽引車につなぎ、砲側に並べていた砲弾を弾薬車に積み込み大急ぎで移動するが、いつ敵の砲弾が飛んでくるか気が気ではない。この時が砲兵にとっては一番危険なのだ。次の射撃適合地へ着くと、すぐさま砲列を敷き、脚を開いて再び駐鋤板を思い切り深く打ち込み砲を安定させなければならない。焦ってこの作業がおろそかになると命中精度が格段に落ちてしまう。準備完了の報告と共に即座に射撃命令が来ると再び砲撃開始。

敵は一旦は擱座した戦車を路肩に押しやって強引に前進して来たが、再び違う方角からの砲撃に遭い多数が爆発炎上、先頭のT34は停止した隊列を離れて何を思ったか単独で牡丹江方向に走り去った。残りは右往左往しながら次々と15センチ榴弾を浴び、街道上はさながら地獄のありさまとなった。

作者 Japanese military reporter (http://www3.plala.or.jp/takihome/96-150.htm) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由

この日、第二中隊は何度陣地変換したのか記憶がないほど激しく移動しては、敵のT34に痛撃を加えた。まさに砲兵部隊にとっては敵戦車との直接戦闘は白兵戦なのだ。
当初、ムーリンの前面に集結していたT34の数は約50両と報告されていたが、この日の第一中隊と第二中隊の砲撃でその内の半数ほどが破壊されている。

この間、第二中隊の損害はゼロであり一方的な勝利だったが、先に接敵した第一中隊の方は敵の砲火のために4門の15榴は破壊され、それ以後はT34に対して肉薄攻撃を行い、生存者はごく僅かと言う悲惨な結果になってしまった。
だがこの砲撃戦によってソ連軍の進撃が一時的にせよストップしたのは確かであり、後方の混乱をいくらかでも救った事は間違いないだろう。

他の中隊の記録は全く分からないが、この第二中隊は弾薬を射ち尽くした後、最後の砲弾で15榴を破壊し、その後は連隊長の独断で後退、連隊長はその責任を取って自決した。しかし終戦後、部隊はソ連軍の命令により居留民の保護と敗残の日本兵の収容のための工作隊となり、捕虜になる事なく2000名の在留邦人と共に無事帰国している。

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参考文献:旺史社 刊 鈴木武四郎 著「東満・北鮮戦塵録」
eyecatch credit: 作者 fotoreporter sovietico sconosciuto [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由

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