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懺悔?後悔?キリシタンだった立花宗茂

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九州の戦国大名だった大友宗麟はキリシタン大名としても有名ですが、その家来で後の築後柳川藩の藩祖である立花宗茂もキリシタンだったかもしれない事実はあまり知られていません。
今回は、どうして立花宗茂が死ぬまでキリスト教を信じ続けたかについて話していきます。

目次

立花宗茂の略歴

1567年、豊後国にて高橋紹雲の長男として生まれた宗茂は、紹雲と共に大友宗麟に仕えていた立花道雪に乞われて養子になり、道雪の娘誾千代と婚姻します。

宗茂が立花家に娘婿になった当時、大友家は衰退の危機にあり、島津家に攻め込まれ、父高橋紹雲は戦死、これが有名な岩屋城の戦いです。宗茂は、居城である立花城を死守し、豊臣家の援軍により辛くも難を逃れますが、主家である大友家はこの戦いでほとんどの領国を失い、大友宗麟も間もなく亡くなりました。その後、豊臣秀吉に見染められた宗茂は事実上大友家から独立し、豊臣家の家臣となるのですが、妻の誾千代は大友家を見限った宗茂をなじり、険悪な中となった2人は別居してしまいます。

宗茂は、その後も秀吉の朝鮮出兵に隋軍し日本軍の勝利に貢献します。これが有名な碧蹄館の戦いです。

帰国後間もなくして秀吉は亡くなり、関ヶ原の戦いが勃発、誾千代は家康に味方するよう進言しましたが、宗茂は聞き入れず石田三成に味方し、結果は敗退、領国は没収されました。浪人となった宗茂は家来に飯を食わせてもらっていたのですが、別居中の誾千代が熊本で亡くなったのを知ると後悔し、仕官して大名復帰を志します。

領国没収から20年後、ようやく奥羽棚倉藩に小大名として復帰が許され、その後故郷の柳川藩に国替えされ、一度は失った領地へ復帰した奇跡の大名として名をとどろかせました。
宗茂の死後、廃藩置県まで立花家は柳川藩の大名として存続しました。

立花家の家紋に隠された秘密

立花家の家紋は祇園守です。この家紋は真ん中にクロスの文様があり、キリシタン大名の小西行長も祇園守に手を加えた同様の家紋を用いていました。
そのことから、宗茂もキリシタン大名だったのではないかというミステリが囁かれています。

ただ、この説は荒唐無稽なものとして公式には否定されています。
というのも、どうして宗茂がこの家紋を採用したのかと言えば、宗茂の夢の中に白髪の老人が現れ、「わしは祇園大社の神である。この紋を使えば夢は叶う」といわれ、家紋を祇園守に変えたところ幸運が舞い込んだからだとされているからです。

立花家の仏間にマリア像

実は、筆者は宗茂の妻の誾千代の家系に連なる縁者なのですが、このお話は親戚の叔父から聞かされたものです。
立花家は先祖代々禅宗なのですが、仏間にて宗茂は日夜供養を欠かさなかったそうです。

その仏壇には、マリア像が置いてあり、キリスト教を嫌っていた秀吉や家康の目を欺くため先祖供養に見せかけながらキリスト教を熱心に信仰していたのではないかと思われるのです。

宗茂は後悔と懺悔の日々を送っていた?

正直に言って、宗茂がキリスト教信者だったという確証はありませんが、筆者には宗茂は後悔と懺悔の気持ちからキリスト教を信じ、罪からの赦しを求めていたのではないかと考えるのです。もともと宗茂は大友家の武将だった訳ですが、主家を見限って豊臣家の陪臣になりました。そのことを妻の誾千代は再三に渡って詰っていました。

実際、家来の中にも宗茂の態度に不満を持っていた者も多く、宗茂は大友家を踏み台にして出世したと非難されたこともあったそうです。そして父の戦死、妻の死、領地を失い、家来に食べさせてもらっている現状から、彼の内心はいつおかしくなっても不思議ではありませんでした。

その心の支えがキリスト教だったとしたら納得がいく話です。
立花宗茂がキリシタン大名だったのではないかというお話でした。

featured image:不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由

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