泰平の世の江戸城。時の将軍徳川家光を前に「戦国」を語る老人がいた。筑後(いまの福岡県南部)柳川10万石超の領主立花宗茂(1567〜1643)。九州の名門大友家の重臣の家に生まれたが主家は衰退。関ヶ原の戦いでは、一大名として西軍に参加したため改易を受けた。
それでも高潔な人柄で家臣に慕われ、大坂の陣での武功により旧領の大半を回復。奇跡の大逆転劇で知られている。地元柳川では「次の大河ドラマの主人公に」と誘致活動を展開する市民団体が立ち上がった。
※宗茂は生涯名前を度々変えていますが、この文中では便宜上統一します。
二人の父
立花宗茂には二人の「父」がいる。宗茂は1567年、豊後(いまの大分県南部)の一部を治める高橋紹運の嫡男としてこの世に生を受けた。転機が訪れたのは1581年。父の同僚で、大友家家老の立花道雪が、男子に恵まれず宗茂を養子に欲しいと申し出てきたのだ。紹運は最初は断ったが、度重なる懇願に折れ、養子に差し出すことを決意した。養子縁組の話を聞き、困惑する宗茂に刀を渡し、親子の縁を切ったという逸話が残る。
立花家の娘誾千代と結婚し、婿養子となった宗茂。その暮らしは楽なものではなかった。ある日、道雪らと道を歩いていたときの話。道端に落ちていた、いが栗を踏んでしまった宗茂は、周りの家臣に助けを求めた。重臣の一人がいがが刺さる足をさらに踏み込んだが、道雪は見ているだけだったという。嫁の誾千代は、男勝りで子に恵まれず、終生仲が悪かった。スパルタに育てられた若者は、やがて名将になるが、それは大分先の話。
鎮西一から無一文へ
宗茂の主家大友家が存亡の危機に立たされた。1578年耳川の戦いである。相手は九州南部の雄島津家。大友家はこの戦いで名だたる武将を多く失い敗北。衰退の一途をたどった。
勢いにのる島津家は、大友家の城を次々に落とし、宗茂、道雪、紹運らが守る九州北部まで進軍してきた。やがて道雪が病死。立花の家督は宗茂が継ぐことになった。島津の攻勢は増し続けた。実父の紹運は、あえて宗茂らの居城の前の城に籠り、壮絶な戦闘の末討死。「もはやこれまで」。決死の覚悟を決めた宗茂らの援軍に、天下人豊臣秀吉が駆けつけた。豊臣軍の怒涛の攻めにより、島津家は降伏。宗茂は秀吉から「鎮西一」と奮戦をたたえられ、筑後国柳川を領する独立大名として歩むことになった。
豊臣政権の下、宗茂はい大規模な一揆の鎮圧、朝鮮出兵で先陣をつとめるなど華々しい活躍を見せた。一方、1600年関ヶ原の戦いで、西軍につき敗北。命からがら領地に帰り、東軍諸将の包囲攻撃を受け改易となったのである。
家臣とその日暮らし
無一文になった宗茂。かつて「鎮西一」と称えられた名将を家臣にと、肥後の大名加藤清正らが説得するが、いずれも断った。やがて京に上る。暮らしぶりは、名将ぶりを惜しんだ清正らが、支援していたという説があるが、大変質素なものだった。
ある日のこと、随行した家臣が米が減ったことに悩み、雑炊にして宗茂に出したところ「汁かけ飯は自分でやる」と叱ったという。京での生活は、大名の栄華とは真逆であり、苦しいものであった。一方、家臣らは宗茂を見捨てず、武士のプライドを捨てて運送など〝アルバイト〟もしたという。宗茂の人望の厚さがうかがえる。
大坂の陣、奇跡の旧領回復
名将立花宗茂を家臣に。旧敵徳川家康がつくった江戸幕府は、知恵を張り巡らせていた。家康は宗茂を江戸城に呼び出した。そこで自らの親衛隊長に抜擢し、5000石を与えたのである。関ヶ原の戦いで西軍についた大名で、改易後に加増を受けたのは、異例であった。やがて1万石超を追加され、棚倉(いまの福島県)に大名として返り咲いたのである。
大坂の陣では、2代将軍秀忠の下で、敵の動向を予見し、的中させるなど活躍。その功で西軍諸大名で唯一旧領をほぼ取り戻した。晩年には3代将軍家光の相談相手となった。島原の乱にも従軍しており、見事な采配で鎮圧に貢献した。
なぜ復活できたのか
宗茂は家臣のほか多くの人に慕われた。その背景には、彼自身のカリスマ性だけでなく、高潔な人柄もあったのであろう。例えば、関ヶ原の戦いで西軍についた島津義弘。
撤退時に「父の仇」と鉢合わせした宗茂は、家臣から「今こそ」と討つよう勧められたが、「それは卑怯」と一蹴。護衛役をかって出たのである。義弘は一連の行為に胸を打たれ、合戦後は助命に奔走した。
不正が相次ぎ、高潔さが忘れられつつある現代。400年前の「名将」は大河ドラマの大役も十分こなせるであろう。
featured image:Utagawa Yoshitora, Public domain, via Wikimedia Commons
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