世界には数多くのミステリースポットが存在します。海域を通過する船や飛行機が蒸発するバミューダトライアングル、奇怪に曲がりくねった木が生えるポーランドのクシヴィ・ラスなど、異次元の干渉を疑わせるエリアは枚挙に暇がありません。
映画やドラマの題材になったエリア51はとりわけ有名ですが、我々が住む日本にもUFOと関連深い場所があるのをご存じでしょうか?今回は日本のエリア51として名を馳せる神隠しのメッカ、田代峠の秘密に迫っていきたいと思います。
日本のエリア51 田代峠で相次ぐ未解決事件
田代峠は宮城県と山形県に跨る峠で、別名・田代林道、または鬢櫛林道とも呼ばれていました。標高は476メートルに及び、冬場は真っ白な豪雪に覆われます。藩政時代から米や馬の運搬道として重用され、禁制品の密輸も後を絶たなかった為、往時は仙台藩の番所が設けられていました。現在は過疎化が著しく、付近には廃集落と田園が広がり、粗末な炭焼き小屋や道祖神の石仏が点在しています。峠を挟んだ山間部には熊笹が生い茂り、山うど・わらび・ぜんまいなどの豊富な山菜が採れました。
戦闘機の墜落事故やUFO目撃談が語られ出す前から、田代峠は知る人ぞ知る曰く付きの場所でした。峠にさしかかった車がエンストを起こすのは日常茶飯事、撮影ドローンはしばしば電波が途切れて墜落します。磁場が狂っているのか、方位磁石はデタラメに回り続けて役に立ちません。
江戸から明治に掛けて人の行き来が激しかったのは、馬の産地として栄えていた最上町の人々がはるばる峠を越え、加美町の馬頭観音にお参りしていたから。加美町の由来である賀美郡(かみごおり)が神の宿る郷(さと)をさすのと同じく、一種の参道として有難がられていたのです。マヨイガ伝説の発祥地・奥羽山脈と峰続きなのも、神秘性を高める要因として働きました。
加美町田代高原に死人沢と呼ばれる沢があります。不吉な地名の由来は六部殺しの伝説。
昔々……村々を托鉢して回っていた旅の六部が、久保屋敷の強欲な農家を訪ね、一晩泊めてほしいと頼みました。主人は快く迎えたものの、朝日が昇って鶏が鳴いても六部は出てこず、どうしたのだろうと村人たちの間で噂が飛び交います。
しばらく経った頃、近くの沢に惨たらしい死体が上がりました。それは僧形の男の骸で、焼火箸で全身滅多刺しにされた上、顔の皮を剝がされていたのです。以来六部の死体が捨てられた沢は死人沢、顔の皮が落ちていた沢は面剥沢と呼ばれるようになりました。
銅山労働者が麓までもたず息を引き取った場合、山中で荼毘に付し、沢に遺骨を流していたのが本当の地名の由来とする説もあります。いずれにせよ、多くの死者が眠る山なのは間違いありません。
戦時中に起きた戦闘機の墜落事故
1968年1月17日、田代峠で悲惨な事故が発生します。航空自衛隊松島基地所属のF86Fセイバー戦闘機が山林に墜落し、操縦していた紙西一等空尉が命を落としたのです。
事故当日、紙西一等空尉は戦闘機の搭乗訓練中でした。しかし最上町上空で突如トラブルが起き、丸1か月後の2月17日、十数名から成る捜索隊によって機体が発見されます。
発見者曰く破損部位はほぼ見当たらず、左翼が外れた以外は無傷に等しい状態。流線型の巨大なシルエットが4メートルの積雪の上にひっそり鎮座する様は、人知を超えた何かを感じさせたそうです。紙西一等空尉の遺体が回収されたのはその翌日。死に顔は眠るように安らかでした。
重量数トンの戦闘機が突っ込んだのなら木々は薙ぎ倒され、最悪炎上して山火事になっていたはず。にもかかわらず現場の木々が然程折れてなかったことから、「空尉は山に住む魔物に魅入られたので、4は」「UFOが軟着陸させたのではないか」と噂が立ちます。
何故被害が最小限で留まったのか、真相は今に至るまで謎のまま。専門家の検証でも原因は判らず、「不可視の手に掴まれたように垂直に落ちて行った」と主張する目撃者の証言が加わり、俄かにミステリーポットとして騒がれ出します。
なお空尉を唆した山の魔物は「ヤマノケ」の通称で呼ばれており、洒落怖の同名エピソードのルーツと見なされています。あちらのヤマノケはドライブ帰りの親子が遭遇した怪異ですが、熟練のパイロットが操縦を誤るとは考えにくく、山の気に当てられたと考える方が納得しやすいのは確か。
峠の天辺には宮崎山岳会寄贈の慰霊碑が建ち、「雪華に夢うるわしく眠る君と 永久に語らん国見の山々 昭和四十三年一月十七日十三時四十七分 紙西一等空尉 愛機と共に此の地に瞑す 昭和四十九年 秋彼岸」と彫られています。
戦闘機の墜落事故はこれが初めてではありません。第二次大戦中にも旧日本軍の一式陸上攻撃機が墜落しているのです。嘘か実か軍用機とUFOが交戦したとも伝わっており、勝敗の行方が気になりますね。
こちらに関しては公式記録が残っておらず、F86Fセイバー戦闘機の事故を取り上げたオカルト番組の誇張、もしくは捏造とする向きも強いです。とはいえ周辺の磁場が狂っているのは確か。峠付近には沢山の洞窟が存在しますが、その大半が人工トンネル(防空壕跡?)で、不用意に接近しようものなら方位磁針がぐるぐる回り続けます。
UFOの秘密基地と化した洞窟と高橋コウの手記
田代峠のミステリースポット化を決定付けたのは、1979年に中央公論社刊「婦人公論」に掲載された最上町在住の専業主婦・高橋コウの手記、「禁断の山に踏み込んで見たもの」。正確には妻の名を騙った高橋邦安氏の体験談で、謎めいた内容が大いに反響を呼びました。
昭和50年代のある日。山菜取り名人のコウは、渋る息子を従え、田代峠奥に踏み込みます。田代峠奥は昔から地獄の山と呼ばれ、行ったら頭が変になる、神隠しに遭うと恐れられる禁足地でした。
峠の終点にて高橋親子は謎の老婆に遭遇し、「この先に行くな」と止められます。その後は半ば無理矢理老婆が塒にしている洞窟に泊められ、「調査に来た役人は鳥の餌になった」と聞かされました。
翌日……老婆の言葉に疑念を抱いて奥に分け入ったコウは、突如として宙に漂い出した緑の泡に呑まれ、フワフワ浮かびながら近くの洞窟に連れて行かれます。
緑の気体が充満する洞窟内には地球と異なる引力が働き、無数の金属片が岩肌に貼り付いていました。それは戦時中に消息を絶った、軍用機の残骸でした。直後緑の光線を浴びたコウは気絶し、老婆の塒の洞窟の前で息子に救助されます。不思議なことに洞窟内から老婆の痕跡は一掃され、二人が下山すると四日が経っていました。
高橋コウの手記があながち作り話とも言い切れないのは、田代峠が連なる奥羽山脈蔵王に、旧日本陸軍の秘密軍事研究施設が実在したから。施設では主に寒冷地での軍用機墜落防止に関する研究を行い、機体への着氷実験を繰り返していました。ならばUFOを観測する機会も当然あったはずで、我々の預かり知らぬ所で、宇宙人との交信が実現していたのかもしれません。
謎が尽きない田代峠ガイド
以上、日本のエリア51こと東北最大のミステリースポット・田代峠の解説でした。本件と関係の有無は不明ですが、手記の公開直後に邦安氏は急逝しています。
同年には赤倉温泉から保京山方面に登っていた少女2人が、全身銀色タイツの不審者3名と遭遇する事件も起きており、峠の洞窟がUFOの中継基地になっている可能性が高まりました。UFOに興味がある方、宇宙人に会いたい方はぜひ行ってみてください。
※画像はイメージです。
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