天祐に導かれた連合艦隊

数々の天祐の積み重ね、それが日本海海戦の大勝利となりました。

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日本海海戦戦闘詳報

日露戦争後に軍令部宛提出された、連合艦隊東郷司令長官・東郷平八郎の日本海海戦戦闘詳報は、
「天祐と神助とにより、我が連合艦隊は敵(中略)と日本海に戦いて、 遂に殆ど之を撃滅することを得たり」
と始まっています。
この報告書文案は秋山真之の作と謂われています。

人生の岐路

真之が生まれた頃の秋山家は赤貧で、5人兄弟の末子(長女は夭逝)として生まれた真之を、両親は口減らしのために寺に出そうかと考えました。
しかし9歳年上の兄・好古がそれに猛反対して取り止めになりました。

15歳の真之は、陸軍中尉の好古を頼って上京します。
初めは文学のために大学を目指していた真之は、まだ中尉の兄の少ない経済力を慮って、海軍兵学校への進学を決めました。

もし真之が寺に入っていたら、普通大学に進学していたら、後の名参謀・秋山真之はあり得ませんでした。

運の良い男

明治26年、帝国海軍では、維新功労者や薩摩閥など幹部独占による組織硬直を打破し、世界に対抗し得る近代海軍の建設のため、実力優先の若手将官登用を目指して、将官8名、佐尉官89名の馘首を断行しました。
その候補の中に東郷平八郎大佐も含まれていました。

慢性気管支カタルの持病による、勤務状況の悪さが理由でしたが、西郷従道海軍大臣が参加した最終選定で惜しい人材だからとギリギリの線で残留が決まりました。

また対露開戦が決定し、常備(後の連合)艦隊司令長官が日高荘乃丞中将から東郷に変わりました。
この時、日高は激高して腰の短刀を抜き、この人事を決定した山本権平海軍大臣に「俺を殺せ」と迫りました。
山本と日高は幼い頃からの竹馬の友でしたが、山本はその情実に惑わされることなく、未曾有の国難を凌ぐため、最適かつ困難な人事を断行したのです。

いよいよ決戦の時、東郷の乗る旗艦・三笠は、死傷者111名、48個の砲弾痕という大被害を被りました。
しかし何の囲いもない露天艦橋に戦闘中ずっと立ち続けていた東郷は無傷で、ロシア太平洋艦隊司令長官マカロフ戦死、その後任ヴィトゲフト戦死、バルチック艦隊司令長官ロジェストヴェンスキー重症という露国側と比べると、これこそ正に天祐です。

東郷司令長官就任の天皇裁可の折、明治天皇が山本海軍大臣に任命について御下問がありました。
山本のその時の答弁は「東郷は運の良い男でございます」だったといいます。

天祐

日本海へと出撃したバルチック艦隊が、バルト海で日本海軍艦艇と誤認して英国漁船を攻撃した、ドッガーバンク事件により英国が対露姿勢が硬化しました。

この事件がなければ、日本の勢力が中国大陸で増大することも懸念していた英国は、スエズ運河の通過や英国領への寄港の拒否などの、対露強硬措置を取らなかったかもしれません。
そうなれば日本海海戦の勝敗はどうなった分かりません。

これら出来事は日本の意志の入り込む余地がない、天祐に他なりません。
秋山や東郷が歩んできた連合艦隊への道も、天祐なくしては成らないもので、これら天祐を強く感じた二人だったからこそ、戦闘詳報の冒頭に天祐の二文字を使ったのでしょう。

歴史大好きじいさんです。
歴史には天祐としか思えないことがあります。

参照:知将 秋山真之 生出寿(おいでひさし)著

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