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ブリキの鍋を背負って

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祖母が、祖父が戦争の話をするのを嫌がるので、子供の頃、ふだんは私が祖父の思い出話を聞いてあげていました。
太平洋戦争のとき、祖父は技師として南方に行っていたようです。

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祖母のほうが苦労していた?!

祖父は終戦後しばらく、オランダ軍の捕虜になっていたそうですが、ときどき空腹だった以外にはひどい目には遭わされずに済んだそうで、戦地にいたときのことを、まるで「海外に長期出張に行ってきた話」のように楽しそうに話すので、祖母は祖父が戦争の話をするのを嫌がっていました。

祖母は日本にいて、女手一つで食糧難を乗り切り、防空壕を掘り、子供たちを育てていたので、ある意味、祖父よりも大変だったのかもしれません。当時祖母は、地方都市の中心部近くに住んでいましたが、農家をやっている郊外の親戚に食べ物をもらいに行ったときに、途中の農道でアメリカ軍の空襲を受けて、横の溝に隠れたという経験もしていたそうです。

ブリキの鍋をたくさん背負って帰ってきた祖父

南方で、ある意味のんきに過ごしていた祖父ですが、戦争中及び敗戦後の日本は大変な状況だということは伝わってきたそうで、日本に残してきた妻子の生活を心配はしていたそうです。

鍋釜にも不自由しているだろうと思って、引き揚げるときに、戦地で使っていたブリキの鍋などをたくさん持って帰ってきたところ、幸いにも祖母も近所の人も鍋釜には困っていなかったので、祖母や近所の人にびっくりされて、笑い話になりました。

「知らないおじちゃんが来た」と言われた祖父

祖父は、戦地から日本に送った写真にはかっこよく写っていましたが、日本に引き揚げてきたときは疲れ果てた姿でした。私の母はまだ小さかったので、祖母に「お父ちゃんだよ」と言われたら、素直に信じて、祖父に駆け寄りました。しかし、すでに物心ついていた伯母は、それが祖父だと思えなくて、近所の家に「うちに知らないおじちゃんが来て、上がり込んでいる」と泣きつきに行ったそうで、それも我が家の定番の笑い話になっていました。

※画像はイメージです。

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