対米開戦に至る過程で、東郷平八郎の影が見え隠れします。
聖将 東郷平八郎
大日本帝国海軍連合艦隊を率い、強大なロシア・バルチック艦隊と真っ向勝負して、日本を勝利に導いた東郷平八郎は、未曾有な国難から祖国を救った英雄として国民のから聖将と崇められ、その死後は神様として東郷神社に祀られました。
戦後、東郷は海軍軍令部長を務めた後、元帥となって元帥府の一人に列せられ、裕仁皇太子(昭和天皇)の学び舎である東宮御学問所総裁も務めた。
元帥府とは軍の最高指揮官である天皇の軍事的最高顧問機関で、特に功労があった陸海軍の大将で構成され、彼らには元帥の称号が付与される。また東宮御学問所は、学習院初等学科卒業後の裕仁皇太子が、軍の最高統帥者として教育を受けるために設けられた特別な学問所である。
栄誉あるこれら職歴に象徴されるその名声が、東郷を犯すべからざる存在へと押し上げ、海軍内部でも絶対的権威に昇華していった。
ロンドン軍縮条約
ロンドン軍縮条約の日本の軍艦保有量対英米7割を巡って、海軍内部で賛否の激論が交わされていた時、条約断固反対の意を東郷が表明した。
当時の海軍では重要事項について元帥に対する事前の諮問が慣例となっていたが、これは全く儀礼的なもので、「宜しい様に」と元帥が答申して落着する筈であった。
しかし生真面目な東郷は、
「(対米7割確保の)協定ならざれば断々乎破棄の他なし」
と答えたのだ。
軍令部を中心とする条約反対の艦隊派がこれに勢い付いた。
それでも推進派の海軍省と政府の頑張りにより、対英米7割を僅かに割っただけの内容で条約は成った。
ところが反対派筆頭の一人、加藤寛治軍令部長はこれに抗議して軍令部長を辞任して部内が混乱。
良識派谷口尚美大将を後任とする善後策の人事に対しても、東郷が再び反対するかもしれない事を、昭和天皇までが憂慮する騒動となった。
その後、勢力を増した艦隊派の策動により、条約推進派の将官が次々に予備役に編入され、海軍の実権を握った艦隊派は条約を破棄。
この時点で日本は対米開戦へと一段舵を切ることになった。
対米開戦
太平洋戦争終結後、東京裁判での陳述のために、生き残った元海軍の高官による勉強会があった。
その中で、開戦直前、昭和16年10月頃の和戦決定最終協議の場で、海軍が対米戦争は不可能と明言しなかった事が問題となった。
戦争はできないと海軍が言えば陸軍単独の戦争は不可能で、開戦を回避できる可能性があったのだ。
時の及川古志郎海軍大臣は対米戦回避の考えを持ち、同意見の近衛首相を十分応援する旨を事前には口約束しながら、いざ東条英機陸相などを交えた会談の場では、一言「近衛首相一任」と発言しただけだった。
結局近衛と東条の議論は決裂し、日本は戦争へと大きく傾いてゆくことになる。
この時及川が事前の約束を違え、海軍不戦の意志を東条に言明しなかった理由を述べている。
その一つは東郷の怒りであった。対米戦に繋がる恐れのある満州事変に前述の谷口尚美軍令部長が反対した時、東郷から面罵されたのが頭に残っていたからだという。
日本の国力では対米戦は不可能という意見の谷口に、それでは元帥として自分も了承し天皇陛下に奉っている軍令部の作戦計画が嘘になると、東郷が怒ったのだ。この怒りに及川は怯えた。
それほどに聖将東郷の威厳は絶大であった。
かくして対米戦は現実のものとなっていった。
真っ正直で生真面目な生粋の軍人
東郷は非常に生真面目で幹部になってからも自ら甲板やトイレの掃除を行い、暴風雨の中では率先して徹夜で警戒に当たったという。
山本権兵衛海相が日露開戦にあたり、常備艦隊司令長官・日高壮之丞に代えて連合艦隊司令長官に東郷を抜擢したのは、この生真面目さ故だった。
この人事に激高した日高に対し、
「才余りある故に貴様は独断専行する恐れ有。沈着冷静な東郷にはそれがない」
と山本は説得した。
つまり大本営の命令を逸脱することなく実行する、真っ正直と生真面目を山本は東郷に期待したのだ。
事程左様に軍人として真面目一方の東郷は、政治的大局観は持ち合わせていなかったのかもしれない。
だから軍艦保有量にしても対米戦争にしても、純粋に軍事的見地からのみの見解を持ち、しかも自らの影響力を考慮することなく、それを真っ正直に公表してしまったのではないか。
そして政治的野望を有する軍人たちに上手くそれを利用された感がある。
対米戦推進派の頭目に祭り上げられた形の東郷について、その栄光が損なわれる事を危惧する、良識派将官たちの思いが複数の資料に残されている。
神様は下界に降りてくるべきではなかった。
※画像はイメージです。
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