その地震が起こらなければ、徳川幕府はなかったかもしれません。
本能寺以後の政治情勢
本能寺の変後、織田家中の最大実力者・柴田勝家を賎ケ岳合戦で葬った羽柴秀吉は、中国から畿内・北陸・越後までを手中に収め、織田政権後継者として最有力の地位を占めました。しかし周囲には未だ反秀吉勢力が多数存在していたのです。
第一には実力は寡少ながら、血筋の点で勝る信長三男・信雄。そして信長の元同盟者にして、五か国150万石の実力者・徳川家康。さらには四国の覇者・長曾我部や九州全土制覇間近の島津も活動を活発化させていました。
そして東に目を転じて関東以遠には、関東の超大大名・北条氏も健在で、若い伊達政宗も勢力拡大に励んでいます。
秀吉の天下取り経緯
1584年 信雄・家康連合軍と対戦 (小牧・長久手の合戦)
1585年 長宗我部征伐
1586年 徳川家康臣従
1597年 島津征伐
1590年 北条征伐
秀吉は先ず、直接的に敵対してきた織田信雄・徳川家康連合軍と戦端を開きました。
小牧・長久手の戦役です。織田徳川連合軍1万7千に対し、羽柴勢10万(一説には6万)という圧倒的優勢にもかかわらず、羽柴勢が家康の巧みな戦運びに翻弄されたため、秀吉は信雄と家康を分断する方策をとり、両者個々と別々に和議を結んで戦線を治めてしまいました。
秀吉はこの翌年に長宗我部を討って四国成敗を果たし、その後、家康を臣下に置く事に成功して、さらに九州征伐で島津を組み伏せてしまいます。こうして西国全土を平定した後、満を持して北条攻めを始めました。
徳川への超優遇策
この様に秀吉は着々と天下平定の作業を進めていますが、ここで注目すべきは敵対武将に対する戦後処置です。
長宗我部には土佐一国を与えたのみで、また島津には薩摩・大隅・日向の一部だけの安堵で許し、北条に至っては完全に滅亡させています。
そんな中、家康に対しては元の5か国全てを安堵しただけでなく、家康を上洛臣従させるために、他家に嫁いでいた妹・朝日姫を離縁させてまで、正妻として家康に嫁がせた上、最も大切な母・大政所を岡崎に送り出しさえしました。
二人は上洛中の家康に大事があった場合の保険で、それは実質人質に他なりません。
如何に家康が手強かったとはいえ、この特別な優遇策はて余りに過大に見えます。
しかしある時期までは秀吉の対徳川政策は強硬だったようです。
徳川攻めの前線基地・美濃大垣城に巨大兵糧蔵を新設して5千俵の米を準備した記録があり、年明けに徳川攻めに出陣する旨の手紙も残っています。
また家康側にも対秀吉戦の為の軍議の形跡があるのです。
なぜ秀吉は政策を180度転換したのでしょう。
天正大地震
秀吉が天下統一を進めたこの期間には見逃してはならない大きな出来事が一つあります。
それは1586年に起こった天正大地震です。
この地震はマグニチュード8、震度6という大地震で、
阪神淡路と東日本の地震がそれぞれM7.3とM9、双方震度は7だったのと比べると、その震災の酷さが想像できます。
例えば前線基地大垣城は全壊全焼、近江長浜城や伊勢長島城全壊など、多数の城が被害を受けた史料が残っています。
地震に救われた家康
この大地震の発生は1月で、前年には徳川攻めを明言していた秀吉が、一転して5月に妹・朝日姫を家康に輿入れさせ、10月に大政所も岡崎に送り込んでいます。
そして同月にとうとう家康が上京して秀吉に臣従しました。
この流れからは、秀吉が大震災後に対家康政策を突然変更しているのがよく分かります。
つまり天正大地震被災によって徳川攻めが不可能になり、秀吉は家康屈服のための強硬策を捨てて、母親を人質同然に差し出すほどの懐柔策をとらざるを得なくなったのです。
結果、家康は勢力を温存することができました。
もしこの地震がなく徳川征伐が実行されていたら、軍事力が圧倒的に優勢な秀吉軍に再度対抗することは、さすがの家康でも難しかったと思われます。
その場合、長宗我部や島津同様に家康の所領も減らされていたでしょう。
となると秀吉臣下で第一等の実力者という史実中の家康は存在せず、結果として徳川幕府の成立も怪しくなってきます。
またことによると北条同様に攻め滅ぼされていたかもしれず、そうであれば徳川幕府の存在自体がなくなってしまいます。
天正大地震はそれほどに、歴史の大きな足跡を残しているのです。
参照:天災から日本史を読み直す 磯田道男 著
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