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祖母の空襲目撃談と抱いた感情に困った話

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先日、母から聞いた今は亡き母方の祖母の戦時中の話です。

祖母は私が物心ついたときには近畿地方山間部の村に住んでいましたが、若い頃は瀬戸内海沿いの工業都市近くに住んでいました。
戦争が長く続き、国家総動員体制が敷かれた当時、祖母も家の近くの軍需工場に勤労動員されていました。
別のご老人からは戦時中の苦労話等を聞いたこともありますが、祖母に関してはそういう話を聞いたことはなく、戦時中の動員生活でも食べる物にも事欠くようなことはなかったようです。

目次

工業都市が空襲された

そんなある日、祖母が動員された軍需工場のある工業都市が空襲に遭いました。
その空襲では爆撃機から何百トンもの焼夷弾が投下されて市街地は火の海となり、死者は数百人単位に上り、被災者や被災家屋は万単位にまでなる甚大な被害が出たそうです。

幸い、祖母は空襲の範囲から離れた場所に住んでおり、直接的な損害は受けませんでしたが、祖母の家からは都市が空襲を受ける様子がはっきり見え、夜の暗闇の中、都市のある方面から急にばっと明るくなったそうです。
どう考えても異常事態ですし、当時の祖母の年齢は定かではないものの、軍需工場に勤労動員されていたことを考えると10代の女学生だったのでしょう。
しかし、祖母はその様子を見て非常に驚くと同時に「花火みたいでキレイ」とも思ったそうです。
・・・笑っていいのか、いけないのか、子どもながらに初めて聞いたときは非常に反応に困りました。

今と昔

今では、映画『この世界の片隅に』のように戦争をただ悲惨なものだけでなく、その後ろには普通の人たちの普通の生活があったことも段々と伝えられるようになりましたが、私が子どもの頃はもちろんそんな風潮はなく、都市が空襲に遭う様子を見て「花火みたいでキレイ」という若いころの祖母の姿を想像して驚き、少し苦笑も漏らしました。

また、祖母はどうやら鋭すぎる感性を持っていたらしく、母から「新聞の孤児の記事を読んで号泣していた」という話を聞いたこともあります。
ただ、深い愛情を持っていた人物でもあり、母は祖母のことを深く慕っています。

祖母を思う

毎年8月になると戦争関連の番組やニュースも増え、「〇〇空襲から〇〇年」という記事も多く目にしますが、その度私は祖母が空襲を見た際に思ったという「キレイ」という感想が頭に浮かんできます。

「不謹慎」とも言われかねない感想ですが、今から思えば、目の前に広がる異常事態に対し精神が無意識の内に防御反応を示したのか、祖母が個人的に花火に何らかの強い思い入れがあったのかと様々な考えや可能性が思い浮かびますが、祖母が亡くなって既に30年近く経過し、当時の祖母を知る人も知り合いにはいません。
私が幼いころに亡くなってしまったとはいえ、もう少し話をする機会があれば良かったのに、と思わずにはいられません。

※画像はイメージです。

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