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需要があるから供給する? 椿井(つばい)政隆の「椿井文書」とは?

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江戸時代後期の1800年代に椿井政隆という人物がいました。彼は国学者だったのですが、非常に親切な人でもあったようです。彼の残した沢山の文書は通称「椿井文書」と呼ばれ、つい、少し前までは「由緒正しい古文書」として扱われている例も多々ありました。
その親切心が仇とはり現代になって「えーっ!」という事態が発生していることをご存じでしょうか?
今、あらためて問題となっている「椿井文書」について検証してみましょう。

目次

事の発端

江戸時代には、あちこちに寺や神社がありました。ちなみに「寺」とは仏教、神社は神道という違う宗教の施設です。
江戸時代には「寺請制度」というものがあり、全ての日本国民はどこかの寺の檀家になることを強制されました。つまり江戸幕府は一般庶民の戸籍管理、身分証明を寺に委ねていたのです。特に人口が急増する江戸では寺が足りず、分家という形で寺を必要に応じ増やしていったのです。

しかし宗教と政治を統一化させることで一般庶民を統制しようと考えた明治新政府は慶応4年3月13日に太政官布達で「祭政一致の一端として神祇官を再興する」と発表しました。神祇官とは簡単に言えば宗教に関する管理を行う最高国家機関のことです。要約すると明治天皇を最高位と位置づけた明治政府は神道を中心にし、多すぎる寺を減らそうと考えたのです。

大慌ての寺

この太政官布告は各地の寺に衝撃を与えました。昔から「坊主丸儲け」と言います。寺というのは檀家からの寄付や冠婚葬祭を行う事で生計をたてています。全く、原価がかからず一定の需要が必ずあり、少なからず尊敬もされるステータスの高い職業。そんな美味しい職業が寺でした。しかし明治新政府は寺を潰しにかかり、実際に「特にこれといった由緒の無い」寺は次々と廃止されていったのです。これをひっくり返して考えれば「何等かの由緒ある寺」は生き残りが可能だったのです。しかし、それは寺側が自分達で証明しなければなりませんでした。

この時代、そういった証明の材料になるのは「その寺に伝わる古文書の類い」です。「うちの寺にはこのような文書が伝わっており由緒正しい寺である」と認められれば存続が許されたのです。しかし大部分の寺社には、そんなものは存在しませんでした。なぜなら寺社は江戸時代に増え続ける人口のために作られたものが多く「由緒」など有る訳がなかったのです。

椿井政隆の登場

そんな困った寺の間で「椿井さんにお願いすれば何とかしてくれるらしい」という噂が飛び交い始めました。椿井政隆は国学者でしたので歴史に詳しく、かつ絵心もあり古文書にも一定の教養がありました。そして椿井政隆は、そういった「困った寺」のために「由緒正しい寺である」ことを証明してくれる古文書を作ってくれたのです。

それさえあれば生き残りが可能です。椿井政隆はそれが「古い文書」であるように見せるために墨でうまく汚れを付けたり、すすで燻したりして「古めかしい雰囲気」を出すこともしてくれました。困った寺は椿井政隆に頼んで自分の寺を「由緒正しい寺」であることを証明する古文書を作ってもらい、生き残りに成功したのです。
こうして日本各地の寺に「椿井政隆作」の古文書が残されました。これらを通称「椿井文書」と呼びます。

さて時代が経って

現代は「和装本」という糸で閉じた本ですら珍しいものです。まして長年、存続している寺に残されている古文書となれば経年による汚れも付き、誰もが無条件で「由緒あるものだろう」と信じてしまいます。そして地方の過疎化が進むなか「町おこし」が盛んになってきました。

その中で、いくつかの町は地元の寺に伝わる古文書を元に「この町は、何とか天皇の第何皇子を祀った古い歴史のある由緒正しい町である」という歴史性の高さを「町起こしの材料」としたところもありました。ところが、それを聞いた歴史学者が「え?」と思い調べてみたところ、なんとその原点は「椿井文書」であるところも多々出てきたのです。

町としては、そのために多額の予算もかけ、人手もさいてきたというのに「実は真っ赤な嘘でした」とは今更言えません。元となった「古文書」を保管していた寺も地元に合わせる顔がありません。
かといって嘘を付き通すのは良くない、というのは誰でも判断できることです。となると人情として「お前さえ余計なことを言わなければよかったのに」と真実を告げた歴史学者を責める人も出てきました。全く、椿井政隆も罪なことをしてくれたものです。

椿井政隆の人物像

なぜ、椿井政隆が寺の求めに応じ、このような偽文書を量産したかは分かっていません。単なる親切心からだったのか、寺がくれるお礼金目当てだったのか、或いは「明治政府に一泡吹かせてやろう」という魂胆であった可能性もあります。しかし何となくですが、国学者というのは「日本国を研究する歴史学者」ですので、礼節をわきまえ分別のある人物像を想像します。

これはあくまで私の想像ですが、椿井政隆は地元の寺のために始めたのではないでしょうか? そこから噂が広まり、今更、辞められなくなってしまった可能性も考えられます。実際に多額の金品を貰えば心も動くでしょう。江戸時代に生まれた椿井政隆にとって明治新政府は、とても日本国の代表とは思えなかったであろうことも想像できます。いずれにしろ、彼の作った大量の偽書のおかげで日本史、特に地方の寺の保管する「古文書類」は、まずは「椿井文書ではないか?」と疑ってかかる必要があるのです。地方史に興味を持たれる方には「大迷惑」な話ではありますが。

椿井文書に代表される、いわゆる「偽書」の類は非常に多いのですが、一方、江戸時代に芝居や講談の題材として取り上げられた際に脚色が加えられ、それが、あたかも本当の史実」として信じられるようになったものも少なくありません。武田信玄と上杉謙信が戦った川中島の合戦は実は、信用に値する資料が全く残されておらず、旧日本陸軍の戦史資料編纂室では「詳細は不明につき、あえて記さず」とされていたことをご存じでしょうか。

実は謙信が単独で武田の本陣に切り込みをかけ、武田信玄がそれを軍配で受け止める、というお決まりの構図も講談のための脚色であり残念ながら史実ではないと考えた方が良いのです。まぁちょっと興ざめな話で申し訳ありませんが。
最後に偽書或いは偽書の疑いが持たれているものを列挙してみいましょう。え? と思うものもあると思います。

偽書

偽書が確定しているもの、その疑いがあるもので有名な物をいくつか紹介します。

偽書と断定されているもの

  • 甲陽軍鑑
    武田信玄とその家来の事を記したもの 江戸初期に小幡景憲が武田遺臣の取材をもとに作ったもので誤りが多く脚色もある。
  • 三河後風土記
    徳川家の初期の頃の歴史を記したもの 江戸時代の正保年間以後の成立と考証され、著者も不明。偽書作りで有名な沢田源内作とする意見もある。

これらは、よく歴史ドラマの元資料として使われるのでご存じの方も多いと思います。

偽書の疑いが持たれているもの

  • 古事記
  • 先代旧事本紀
  • 東方見聞録
  • 老子道徳経
  • 船中八策

偽書を作成していたのは椿井政隆だけではなかったのです。
他にも沢山の偽書製作者がいたであろうことが推測されています。

※画像はイメージです。

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