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芸術品は付喪神になるのか

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付喪神は、道具類が妖怪に変化するものである。
身近な家事などに使うもののイメージが強いが、絵巻物の『陰陽雑記』では数珠や簑などが化けているので、明確な線引きがある訳ではないだろう。

付喪神の要件として有名なのは、99年、または100年使われる事である。
だとすれば、作られてから100年、200年と経ている芸術品が化ける事はないのだろうか。

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動く、騒ぐ、迷惑かける!アクティブ芸術作品

芸術品が化ける例として有名なのは、絵画だろう。
曰く、掛け軸の幽霊が抜け出してきて、一緒に酒盛りをしたら、横になった絵になってしまった。
鳥が抜け出すようになり、枝を描き添えたら、留まっていた。
竜に目を入れたら、抜け出してしまった。

絵馬から馬が抜け出し、畑を荒らしていた、など。
一方、立体については、左甚五郎が掘ったネズミが動き出した、といった話がある。
仏像も芸術品的要素があるが、動いたという伝説は見られる。

だが、これらをもって付喪神と解釈するには少々違和感がある。

付喪神にはちょっと?

「埋まっている」芸術作品

何となれば、これらの伝説は、しばしば作り手の技量の高さを表すエピソードとして語られるからである。
つまり、芸術作品は道具類とは少々異なる性質を持つものという事だ。
絵画に関して言えば、動くのはソフトウェア部分の「絵」であって、ハードウェアの「紙と絵の具」ではない。
だとするならば、モノとしての絵画はゲートに過ぎず、巧みに作る事で接点が出来上がった、と考えた方が理屈に合う。
だが、人が頭の中で考えた絵が、別世界とはいえ実在するというのは無理があるのではないか。

絵はひとまず保留として、彫刻の方を考えよう。こちらは分かりやすい。
夏目漱石の『夢十夜』によれば、仏像は仏師が彫って造るのではなく、木に埋まっているのを彫り出してやるだけである、という。
つまり、巧みな彫刻家は、元々あるものを傷付けず上手く彫り出す。

上手さには様々な方向性があるから、評価されているものが必ず動くとは限らない。
むしろ、動いてしまったものは、わざわざ彫刻のままでいず、どこかへ行ってしまうだろう。つまり、今残っているものは、本来の形が上手く再現出来ず、動くに動けないか、単純に動くのが面倒臭いかだ。
既に魂があるのだから、何千年経ったところで付喪神として、新たな魂が宿る隙間はない。

ここへきて、絵画の方も同じ理屈が通る事が分かる。
元々、向こう側の世界があり、それを認識して上手く描ける者の絵だけが「抜け出る」のである。

額縁に隙間はあるのか

だとすれば、モノとして実在するのは、掛け軸の枠部分や額縁という事になる。
これが化ける事は、充分にあり得る。あり得るが、それが99年保つか、というのは怪しいところである。
優れた作品のために行われる掛け軸の装丁や額縁といったものは、作品と釣り合うだけの完成度が求められ、それ自体が工芸品として非常に高い技量で造られた作品と言い換えられる。

これは漫画『ギャラリー・フェイク』(作:細野不二彦)の「されど額縁」というエピソードが分かりやすい。
職人の魂がこもった作品となってしまえば、これはやはり後から付喪神が入る余地がない。
一時的に、粗末な額が使われたとして、それが芸術作品と一体となって99年も使われ続けるかといえば疑わしい。
どこかのタイミングで、そのみすぼらしさに気付かれ、時に耐久性などの問題で自ら壊れ、然るべき額に取り替えられる事は間違いないだろう。
こうして、作品にも額にも隙はなくなる。

こうして考えていくと、芸術作品が付喪神として化ける可能性は薄く、動いたとしたら元々そういうものだった、という事である。
従って、動いたからといって、付喪神扱いして、いきなり仏頂尊勝陀羅尼を唱えたりしてはいけない。
彼らは気位が高くキレやすい。
ブチキレた日には、耳の1枚ぐらいは切り取られるかも知れないのだ。
黄色い花には気を付けろ。

※画像はイメージです。

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