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付喪神と妖怪の分岐点

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妖怪に「化け草履」というものがいる。粗末に扱われた草履が化けたものだ。
一方、付喪神という考え方もある。
道具を100年(または99年)使うと、命が宿り神になるというものだ。

妖怪と神とは大変な違いだ。大差ないというのは間違いである。
日本は言霊の国だ。
呼び名が違うものは、それだけで別のものになる。
この2つ、どこに分かれ道があるのだろうか?

目次

古文書による「化け草履」と「付喪神」

予め言っておくが、草履が99年で付喪神になり、100年で化け草履になるというのは、水木しげる解釈で、スタンダードなものではない。
化け草履の初出と考えられるのは、室町時代の『百鬼夜行絵巻』である。
草履顔で藁の甲胄を付けた妖怪が、ひょろひょろの騎馬に跨がっている。手足は猫か犬のそれに見え、案外タヌキが化けているだけかも知れない。

江戸時代の黄表紙『運次第出雲縁組』には、雪駄の妖怪が、草履の妖怪に声をかけている。
こちらは顔が草履なだけだ。
普通に着物を着ているのはともかく、足は下駄履きという、ツッコミ待ちな姿になっている。
作者が十返舎一九なので、分かってやっている筈だ。

そして大きな草履に手足が生えた、ニコちゃん大王形態は水木しげるが映像化したものだが、『聴耳草紙』の「履物の化物」を元にしたものである。

次に付喪神である。

道具が100年経つと付喪神になる、という話は室町時代の『付喪神絵巻』に見られる。挿絵を見ると、草履はないが蓑らしき藁製品はある。
作中では「100年経つと付喪神になるので、その前に捨ててしまおう」と人間が考え、捨てられたものが化けている。
つまり、こいつらは規程の年数を経ていないのに動いている。

いのちだいじに

人間が使う道具が命を持つというのは、神道の発想だろう。神道において、命はスナック感覚で発生する。
空に輝く天照大神からして、左目に付いていた黄泉の汚れか何かだ。人間も一体何をどうして作られたのか、よく分かっていない。つまり、神道においては、「命」の概念が薄い。

ニニギノミコトが不細工な妻を押しつけられそうになった時の振る舞いに失敗して、「終わり」は設定されたものの、生まれる部分は茫洋としている。
一方、仏教においては、命は前世が必要になるもので、ゼロから生まれる事は考えにくい。
ユダヤ教+2については論外で、彼らにとって命の製作は神の独占業務である。ボディは天使の開発部に作らせるにしても、本番の命は神が与えているだろう。

いのち、さずけよー

付喪神にしても、化け草履にしても、人間が使っている事が前提だ。
未開封、未使用の品物について、付喪神化は考え難い。

ここでいう「考え難い」というのは、神道に触れている日本人のごく有り触れた感覚の事だ。
教義のない宗教において、この「感覚」は非常に大事だ。考えるのではなく、ルールに従うのではなく、感じるのである。
「何となく」怖い場所、「何故か」起きる事、「気が付いたら」現れるもの、そういった未知に名前を付けていったのが「八百万の神々」である。

付喪神が命を持つのは、人間という命に触れていたからだ。
一緒にいれば匂いが移る。
命が失われれば、腐り果て匂いは全く変わる。
ここでいう匂いは喩えだが、「生命力」や「気」と言っても挙動は変わらない。
匂いが移るほどの長い間使い続けた道具には、濃い命が宿る。

なるほど、そこまでは分かる。
では、何故化けるのか?

神か妖怪か?

付喪神発達段階

化け草履になる理由は「粗末に扱われたから」とされる。妙な話である。
100年保つ筈がないという部分を差し引いても、付喪神になる以前には、命がない筈ではないか。
命がないものが、自分がどう扱われているか分かるのか?
ここで1つの仮説が生まれる。
付喪神には3つの発達段階があるという事だ。

  1. 第1段階
    意識だけが覚醒した状態
    ※空条承太郎に喩えると、時止めされたクセにそれを認識している状態
  2. 第2段階
    動けるようになる状態(妖怪)
    ※DIOに止められた時の中でも動けるようになった状態
  3. 第3段階
    神として神通力を得た状態(付喪神)
    ※自分で時を止められる状態。

第1段階は、初期状態の可能性がある。
昔話で、意識を持たない筈のものが意識を持つ描写がしばしば見られる。『聞き耳頭巾』では庭木が喋っている。『ネミの嫁入り』では壁が喋る。
例がある以上、最初から草履に意識があってもおかしくはない。
ならば、雑に扱いヘイトが溜まるのは問題ない。

次第に人の生命力が分け与えられ、第2段階に至る。
人の近くにいるうちは、生命力差から圧倒され、簡単には動けない。だが、雑に扱われ、人間から離れた時、その圧迫はなくなる。
『付喪神絵巻』でも、捨てられてから動いている。
これが100年を待たず動く。動くに決まっている。動きたくて仕方がなかったのだ。
いつまでやれるか分からない。
だが、胸の恨みに動かされ、化け草履は動き始めるのだ。
胸があるかはともかく。

第3段階。付喪神はどうか。
悪さをするという説もあるにはあるが、「化ける」と言われず、「神」と言霊を与えられたなら神性を帯びる。
「悪さ」と言っても、これは荒魂の動きに過ぎず、妖怪のそれと本質は異なるだろう。

付喪神にも恨みはある筈だ。
どれほど丁寧に扱われようと、履いて踏みつけられるのだ。だが、人間は草履を雑に扱わず、補修しながら使い続ける。
人間とごく近くに居続ける草履は、生命力に圧倒されたまま、動けない日々が続く。
屈辱の時を経て、ようやく仕返し出来るだけの力が宿る。
そう思った時、1番自分を苦しめた筈の人間は、既に亡くなっている。

草履は思う。
己の抱く恨みは、本当に恨みばかりであったか。
怒りは長く持ち続ける事は難しい。臥薪嘗胆という言葉は、「そうしなければ恨みを忘れる」という、心の働きを表している。
そして草履は、化けるのをやめ、付喪神としての道を選ぶのだ。

現存する「履物の化物」

以上が、付喪神と化け草履の違いに関する考察である。
――これを、単なる昔話と思ってはいないだろうか。

現実に存在する話である。
札幌の街を歩いた事があるだろうか。
そこに、「履物の化物」を見る事が出来る。

化け手袋である。

持ち主に反逆した手袋が、雪の上にしばしば見られる。
まだ生命力が足りず力尽きてはいるが、妖怪として逃げたものである事は明らかだ。
軍手なら偶然かも知れない。
他の地域なら、雑に扱って落としたのかも知れない。

だが、札幌である。
最低気温でマイナス10度をカジュアルに超え、「俺たちゃダウンがユニフォーム」の土地柄だ。
こんなところで手を外気に曝していれば、10分で重篤な凍傷になる。しかも、関東辺りの格好いいポーズ「ポケットに手を入れる」も困難だ。
札幌の街は雪でツルッツルである。
両手をポケットに入れていれば、その先にあるのは尻餅である。

つまり、偶然手袋を落とす事は、論理的にあり得ない。

この現象を「履物の化物」の実証とひとまず結論し、科学的な検証を待とう。諸兄らは、くれぐれも「履物の化物」の発生のないよう、手袋は丁寧に取り扱って欲しい。
手袋は、特に札幌市営地下鉄の地下鉄の券売機が好きなようだ。

追記:尚、北海道弁において、手袋は「履く」ものである。

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