江戸時代の終わりに日本で天然痘が猛威を振るい、多くの命が奪われていました。
この状況を変えようと立ち上がったのが、福井藩の蘭方医 笠原良策、大阪の医師 緒方洪庵です。
彼らは、まだ未知の技術だった種痘(牛痘接種)を広めるため、命がけの挑戦を始めました。
笠原良策は1809年、福井城下の町医・笠原龍斎の子として生まれました。
蘭方医学を学んだ彼は、種痘の力に希望を見いだし、「白翁(はくおう)」という号を名乗ります。これは「ワクシーネ(ワクチン)」の音を白神(はくしん)と写したものに由来し、彼の決意が込められていました。
長崎から広まる牛痘苗
1849年、長崎出島に寄港したオランダ船が持ち込んだ牛痘苗の活着が、日本で初めて成功しました。これが日本全国に種痘が広まる端緒となります。病痘苗は長崎奉行所から京都の日野鼎哉に届けられ、良策はその知らせを受けるや否や京都へ急行し、除痘館で接種法を学びました。
この場で良策は、緒方洪庵や日野葛民らに苗を分け与え、接種技術を教えます。洪庵はこの知識をもとに、大阪道修町に除痘館を開設し、種痘の普及に尽力することになります。
命をつなぐ峠越え
良策が福井へ牛痘苗を運んだ道のりは、まさに命がけの旅でした。冬の積雪深い栃ノ木峠を越えるため、彼は「人継ぎ法(ひとつぎほう)」を採用。苗を幼児に接種し、その幼児を抱いて山を越えるというものでした。幼児を背負った男たちと母親が凍える寒さの中、遭難寸前に村人の救援を受け、ようやく福井にたどり着きます。
この時の覚悟を良策は「たとえわれ命死ぬとも 死なましき人は死なさぬ道開きせん」と詠みました。種痘にかける彼の信念と、命のリレーがこの一句に凝縮されています。
福井に牛痘をもたらした良策でしたが、その道のりは平坦ではありませんでした。人々の無理解、藩医の中傷、そして痘苗の絶滅の危機…。それでも良策は諦めず、周囲の蘭方医と協力し、種痘を広め続けました。天然痘の流行が起きたことでようやく藩も重い腰を上げ、藩営除痘館が設置され、藩医たちが種痘を担う体制が整っていきます。
緒方洪庵と適々塾の志
緒方洪庵は1810年、豊後国の豪族の家に生まれ、幼い頃に天然痘を患った自身の経験から種痘の必要性を痛感していました。大阪に開いた適々塾では、医学教育とともに種痘普及に尽力し、後の大阪帝国大学(現・大阪大学)へとつながる日本の医学の礎を築きました。
その陰には、塾生や種痘事業に関わる人々を支え続けた妻・八重の存在がありました。多くの子を育てながら夫を支え、彼女の存在は洪庵の志を支える大きな力だったのです。
こうして、笠原良策、緒方洪庵、そしてその家族や仲間たちのたゆまぬ努力により、日本に種痘は広まり、数多くの命が救われました。彼らの軌跡は、医学と人道の歴史に深く刻まれています。
※画像はイメージです。


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