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上杉謙信の女性説を検証してみた

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多くの武将が活躍し、歴史ファンを虜にしてやまない戦国時代ですが、その中でも上杉謙信は歴史ファンにとっても人気のある武将といえるでしょう。

戦術の腕は神業級であり、その戦歴から後世「軍神」や「越後の龍」と呼ばれていました。
戦闘においてはライバルの武田信玄さえも、「日本無双の名大名」と言わしめており、生涯の70回起こった戦争で、大きな敗北は1度のみという驚異的な勝率だったのです。

そんな周辺大名から恐れられていた上杉謙信ですが、とある噂が昔からあるのです。
それは「上杉謙信は女性だった」という驚くべき内容でした。

目次

女性説?

そもそもなぜ上杉謙信が女性などという突拍子もない噂が広まったかというと、時は1968年に上ります。
1968年、歴史小説家の八切止夫が「上杉謙信は女性だ」という説を唱え読売新聞に発表したのが発端となりました。
八切氏は紙面で、いかに上杉謙信が女性の可能性があるのかを多く挙げていったのです。

正直に言うと、歴史の専門家から相手されている説ではありませんが、多くの人を納得させる内容でもあり、現在も上杉謙信が女性として出る創作作品もあるほどです。
内容は記録に残っている謙信の逸話や伝説や俗説などから読み解いたものでした。
あくまで学術的なものではなく、仮説ですが読んでいると不思議な説得性があるのも事実です。

女性説の根拠

上杉謙信が女性だといわれる都市伝説が広がるようになった理由を紹介していきます。

まず噂が出るきっかけとなったものに、ゴンザレス報告書というスペインの死者が日本に訪れたときの近況を、当時の王朝に報告していた記載があったのです。
そのゴンザレスの報告書には、上杉謙信を「叔母(Tia)と書いていたのです。ただし叔父の場合は「Tio]なのでスペルミスの可能性も否めません。
そして景勝は「叔母が開発した佐渡金山を所有していた」とまで記されており、この叔母が上杉謙信ではないかと考えられているのです。
八切氏が丹念に歴史書を調べてみたものの、上杉景勝の血縁は上杉謙信しか考えられなかったといいます。

しかし記録として残っている限りは、まったく無視できるものではありません。
そしてこれ以外にも上杉謙信には疑わしい点がありました。

次に女性特有の現象に悩まされていたのではという説があるのです。謙信の死因に「大虫」といわれています。
八切氏はこの「大虫」を月経の一種ではないかと考えたのです。

多くの戦国武将の死因が歴史書には書かれていますが、「大虫」でなくなったのは上杉謙信しかいないそうです。
また上杉謙信は合戦の時に、原因不明の腹痛に襲われることがあったといわれています。
これも生理の一環ではないかという主張です。

他の要因

また、噂を加速させる要因に、「生涯不犯」という「結婚しない」という誓いを立て、女性を寄せ付けず養子を迎えています。そこを深く勘ぐって女性であるために、結婚できずに子孫が残せないために養子をとったと憶測されています。

そして上杉謙信は「男色」をたしなんでいたといい、特に美少年が好きだったといわれています。
女性に興味を示さず、美少年ばかり愛でているところも女性的だと考えられているのです。

他にも源氏物語などの恋愛小説ものを好んで読んでいたといいます。
源氏物語は今の言葉でいうと「少女漫画」であり、男性は教養として読む者の特に武士はあまり浸透していませんでした。
そして歌会では見事な恋の歌を歌い、公家衆を驚かせたといいます。
しかも和歌の筆跡は女性のようだったそうです。

また民衆のはやり歌に、上杉謙信のことを「男も及ばぬ大力無双」と歌った歌があったそうです。
これは盲目の女性が歌っていたといい、真意はわかりませんが、男性に男も及ばぬというのはいささか違和感を感じてしまいます。

上杉謙信のファッションセンスも他の戦国武将と違っていました。
例えば武将は「男らしく」というイメージを演出するために、黒などの色をもちいますが、剣心は赤色の服を好んでいたといいます。
上杉神社にも真っ赤な衣装が奉納されており、軍神が女性的な色を着ていたことがしのばれるものです。

そして上杉謙信は無類の酒好きであったといいますが、謙信はそのために自分の肖像画の代わりに大杯を描かせたといわれています。
深読みすると、杯は女性の隠語(女性器を意味している)であるために、大杯を描かせて「自分が女性」アピールをしたのではないかといわれています。

結論として

上杉謙信が女性だったのでは?という根拠を挙げてみましたが、結局のところは憶測の域を出ていません。
ゴンザレスの資料以外は、状況証拠ばかりであり、「上杉謙信が女性だった」と結論づけるほどのものではない印象です。
では上杉謙信はなぜこのような噂が付きまとうようになったのか?
それはやはり生涯不犯の誓いがあったからと憶測されます。

大名にとって生涯不犯は望まれるものではありません。
結婚や跡継ぎ問題も重要な仕事であり、一族繁栄にとって大事なことでした。
そして謙信は二人の男性を養子にもらっています。
やはりというか、謙信の死後は「御館の乱」という内乱を招き、家督争いが起こっています。

そこまでのリスクと禁欲をなぜ謙信は選んだのか?よく推察される理由は、「謙信は男色だった」という点です。
ただしこの時代は男色が珍しくない時代です。
しかし現在の言い方だと「両刀使い」というもので、男性だけ愛でる人はあまりいませんでした。
そして公家の噂話で「謙信は若い男性が好きらしい」などと噂されていたようです。
ただしこれも下種の勘繰り的なもので、「自分の恋心を神に捧げないといけない」と書くほどの神仏傾倒者ならば深読みではないかとも感じられるものです。

そして一番しっくりくる説明は「名代家督」のために作りたくても作れなかったというものです。
上杉謙信は家督を譲られるときに、嫡男の後見のために一時的に家督を預かった中継ぎ当主だったためだと考えられているのです。
そして家臣たちが謙信に婚礼を進めるも、謙信は「御身清浄にして自然と塵虚りを遠のけ、ついに晴景父子への節義を守ら荒れる」というものだったのではないでしょうか。

万一自分に子供ができてしまったら、兄の子に家督を返上しにくくなってしまうというのです。
結局兄・春景は病死し、その子も元服前に早世してしまいましたが、すでに神仏に不犯を誓っていたために約束を違う訳にもいかず養子をとったというのが一番支持されている理由でしょう。

そのために決して女性だったから、性的不能だったからではなくきっと「神仏・親族に対する敬愛」が謙信の人生を形作ったといえるのではないでしょうか。

最後に

今回上杉謙信女性説の執筆機会を頂き、まとめてみましたが、筆者個人的な意見を言うと「少し女性趣味も入った気難しい人」だったのではないかと思っていたりします。
当時の男性・女性というカテゴリーの中で、近年注目される「性的マイノリティ」とまではいきませんが女性的なものが好きだったようです。
もう昔の人であり、真実を知るのは困難ですが、そこも歴史の面白さでありロマンでもあるのかもしれません。

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