ナチスドイツのイギリス本土進攻作戦。イギリスは瀕死状態でした。
ナチスドイツ侵攻
ヒトラーによる一党独裁体制が確立したナチスドイツは、国際連盟脱退など強硬外交を推し進め、オーストリア併合、チェコスロバキア・ズデーデン地方やリトアニア・メーメル地方の割譲と強引に勢力を拡大していた。
そして1939年、ポーランドを武力占領すると、1940年にはノルウェー・デンマークも占領し、オランダ、ベルギー、フランスにも侵攻を始める。
この間、イギリス・チェンバレン首相は対独宥和政策の下、戦争回避の為ドイツの強硬外交を条件付きながら認める事を繰り返していたが、ナチスドイツの拡張政策を止める事ができず、そのポーランド侵攻時にイギリスは対独宣戦布告に踏み切った。
しかしノルウェーに上陸して反攻を試みたイギリス軍は敗退撤収し、英仏連合軍も後退し続けて英仏海峡を挟んだフランス・ダンケルクで包囲され、全滅を待つばかりとなる戦況だった。
チャーチルはヒトラーに屈服しかけていた
西ヨーロッパを席捲したドイツに対し、単独で抗戦する事になったイギリス政府内では抗戦と講和を巡って意見が分かれていた。
この緊急時に、対独反攻失敗の責任をとったチェンバレンに代わり、首相に就任したのがウィンストン・チャーチルである。
チャーチルは徹頭徹尾、対独抗戦を唱えていたが、前首相チェンバレンや外相ハリファックスなど対独宥和勢力は根強く存在し、おまけに国王ジョージ6世にも嫌われていたチャーチルの立場は決して堅固なものではなかった。
そして眼前の問題としてダンケルクで孤立するイギリス軍約40万人の撤退があった。
この40万人のイギリス人兵士たちの全滅はもちろん、本土防衛戦による更なる多数のイギリス国民の死を代償とする抗戦は、現実的ではなく絶対避けるべきだと、ハリファックスらはチャーチルに対独講和を迫っていた。
唯一の援助国アメリカについては、対独参戦どころか本格援助さえもその国内世論により期待できず、理性的に考えれば孤立無援のイギリスが生き残る道は講和しかない状況だった。
悩み抜いたチャーチルは、しかし瀬戸際で踏ん張り徹底抗戦の方針を宣言する。
彼は後に奇跡のダイナモ作戦と称される、ダンケルク撤退作戦でイギリス軍33万人余りを救出し、ドイツの本格的な英国本土進攻に対する防衛戦「バトル オブ ブリテン」を戦い抜く。
対英米蘭蒋戦争終末促進に関する腹案
この「腹案」なるものは、1941年11月15日に大本営政府連絡会議が決定した、対英米蘭戦における日本の基本戦略である。
その冒頭にある方針の中に、
「独伊と提携して先ず英の屈伏を図り米の継戦意志を喪失せしむるに勉む」
という文言が書かれている。
つまり国家の最高機関が決めた国の政策方針で、第一にイギリスの屈伏を図る事が謳われているのだ。
そして前年のドイツの軍事的圧迫によりイギリスが瀕死状態で、この方針はその達成が目前となっていた。
無謀とも見えるチャーチルの抗戦宣言でイギリスは土壇場で踏み止ってはいたが、欧州戦争に加担せずというアメリカ世論により、武器等の援助が受けられないイギリスは正に風前の灯火だった。
アメリカ政府はそれでも武器貸与法などの制定でイギリスの軍事的援助を始めていたが、いまだ参戦はできずにいた。
ハワイ真珠湾による影響
1941年12月、日本がハワイ真珠湾を突如攻撃すると、アメリカの世論は一挙に参戦に転換する。
日本の対米宣戦は日独伊三国同盟によりそのまま独伊の対米宣戦となる。
即ちアメリカ政府が望んでいた対独開戦が図らずも日本によって実現したのである。
この日米開戦の報に接しチャーチルは、
「感激と興奮とに満たされ、救われた気持ちで感謝しながら眠りについた」という。
この時、日本の基本戦略は破綻した。
イギリスをぶっ潰すのを国家方針に掲げていながら、日本は自らがイギリスを助けてしまったのである。
※画像はイメージです。
思った事を何でも!ネガティブOK!