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戦国武将の常套手段「裏切り」って悪?

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 「あやつ、裏切りおったわ」戦国時代のドラマでよく聞くこのセリフ。「裏切り」は今なお「悪」のイメージが強い行為である。「下剋上」の世でも同じで、露見した場合、当事者は厳罰に処された。
一方、念入りな準備と迅速な行動で「裏切り」、500年先の現代に「偉人」として名を連ねる人物も多い。コロナ禍に物価高と不景気に終わりがみえない現代。先人たちの「処世術」に解決策を求めるのも良いであろう。

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「転職」は念入りに準備

 武家を統率すべき足利将軍家の力が応仁の乱で衰えた戦国時代。安定を失った各地の武士たちは、少しでも自分を高く評価する主人を求めた。裏切りはいうならば〝転職〟を叶える手段の一つである。きっかけは敵陣営からのヘッドハンティング、自ら内応を申し出たりとさまざま。ここぞというときに行動した武将は、共通して〝転職先〟で重く用いられる。そのため、敵方有利とみるや裏切る武将は少なくなかった。武士に忠義のイメージがついたのは、太平の世となった江戸時代になってからだ。

 一方、自ら置かれた境遇の不利を悟り敵に寝返る「返り忠」への評価は厳しかった。例えば、武田家の一門衆(親戚)小山田信茂は、主家の滅亡直前に織田信長に寝返り、戦の勝利に貢献したが、不忠を追及されて斬首されている。かたや徳川家康の誘いにのり、滅亡から少し前に寝返った一門衆の穴山梅雪は、小山田とは異なり、その後も徳川に仕えている。

徳川家康も裏切り者?

大多数の人が戦国時代の裏切り者として、思い浮かべるのは松永久秀、宇喜多直家、津軽為信らいわゆる「梟雄」であろう。彼らは、〝上司〟を殺害したり、追放しているのである。行動の背景には、彼らなりの正義があり、隠れファンも多い。一方、主君を数度変えた徳川家康の評価は総じて「乱世の覇者」である。

周知の通り徳川家康は「生まれながらの将軍」ではない。彼が生まれたのは1543年。三河(いまの愛知県南部)を領していた小大名松平家である。当時の松平家は、東に今川、西に織田と強敵に囲まれた状態。家康の父は、嫡男の家康(幼名•竹千代)を今川家に人質に出すことで、後ろ盾を得て難局を乗り切ろうとした。護衛役の親族の裏切りに遭い、織田家の人質になったが、間もなく今川家に戻っている。今川領では、軍師の太原雪斎から教えを受け、当主の義元からは「元」の字を拝領し、「松平元康」として元服するなど厚遇されている。

転機が訪れたのは1560年。桶狭間合戦で義元が討死した後。今川方として参戦した家康は、空城となった故郷の岡崎城に戻り、敵方だった織田信長と手を結んだのだ。自分を育ててくれた義元の遺児氏真は、1568年は遠江の掛川城で半年間かけて破り、北条家に追放している。

この部分に注目すると、家康も裏切り者である。ただ、旧主氏真に対し、1571年に自らの居城に迎え、生活を保障するなど厚遇している。家康はいわゆるアフターフォローが上手なのだ。大事な嫡男を「殺した」信長に対しても私情を抑え、淡々と仕え続けている。行動後の損得を考え、行動し続けてきた結果、最後に大成したのであろう。

※家康は数度改名していますが、便宜上「家康」で統一しています。

現代まで生きる「処世術」

 筆者は「裏切り」を肯定しているわけではない。仏教に「因果応報」という言葉があるように悲惨な末路をたどった者も少なくないからだ。ただ、戦国時代をみると、時流を読んだその行動が、生死を分けているのは事実である。「裏切り者」と「英雄」。

分岐点になったのは、徳川家康のような念入りな準備とそれまで受けた恩を忘れないアフターフォローなのである。不景気な現代。自らの新天地を求めて転職を考える人も多いであろう。「裏切り者」として咎められるのは避けたいものである。

※画像はイメージです。

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