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伝えたい、おじいさんとおばあさんの太平洋戦争

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おじいさんにもいよいよ召集令状が届いた・・・しかし暫くしてから返されたようです。
よく国家はほぼ強制的に招集されて、海軍の場合、海士館というところで三か月間。基礎的な軍事の訓練をしてから戦地に送り出されたりします。

海上自衛隊でも同じで、二等海士はしっかり軍規や規律や銃の取り扱いまで勉強する事になりますが、どうも私のおじいさんは訓練以前にあまり体も強くなかったようで返されてしまったようです。

もともと胃が生まれつき悪く、後に切除するんですが、それぐらいあまり丈夫ではありませんでした。
厳しい軍務に耐えられないと判断すると、実は返される事があるようでした。
これは陸軍も同様だそうです。そういう意味ではおじいさんは命拾いしたのかもしれません。

その間、おばあさんは配給だけでは到底足りない食料を、どうやって確保するか5人もいるとそれは必死になっていました。
それゆえ、私が食事を残すとやはり厳しかった記憶があります。

母は50銭という硬貨を覚えていました。飴玉が一つかえるぐらいの価値だったそうですが、沢山おかしが買えないので進駐軍によくお菓子を貰ったようでした。
よく覚えているのが、その当時まだ日本は日本車というのが全然だめでしたから、ルノータクシーというのを銀座でよく見かけたようです。

タクシーというとルノーというのが印象があるようです。でもそんな車誰が乗るのかといつもみていたようでした。
食べていくのが精一杯の戦後にそんな余裕などない訳です。

辛うじて戦災を免れた我が家でしたが、貧しい事には変わりはなくそれこそなんでも食べて生き延びなければならない。
そして今日もお米の配達におじいさんはラバウル小唄をうたいながら働いていたようでした。

※写真はイメージです。

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