私が子供の頃、周囲の大人達から聞かされ続けた戦時中の話。
内地の事も色々聞かされました。
今回は戦場では無くグラマンによる空襲の話です。
目次
機銃掃射
私の父は終戦時で18歳。
戦闘に参加させられる事はありませんでしたが、陸軍に徴兵され砲兵科に配属されていました。
「あと一年長引いていたら、高射砲兵になって爆撃で死んでいただろう」、それが口癖でした。
もちろん戦闘に駆り出されなくても戦争が長引かなくても、死んでいた可能性は大いにありました。日本全域が無差別空襲に晒されていたのですから。父もまた絨毯爆撃以外にも戦闘機、当時の言葉でいう「グラマン」にピンポイントで狙われた事があります。
ある日の昼間、父が街を歩いていたら、突然背後で銃声がしました。軍で訓練を受けていたので、反射的に地面に伏せる事が出来、命中する事はありませんでした。それでも近くに着弾して土埃が舞い、薬莢と千切れた弾帯が降り注いで来たそうです。
発砲されるまで敵機に気付けなかった事を、父はこう語っていました。
「一旦エンジン切って、グライダー滑空して来たんだろう。音を消して不意打ち仕掛けるために」。
機銃掃射 その2
こちらは私が小学4年生の頃、担任教師が語ってくれたものです。
当時10代前半の先生は、町をうろついていました。広い通りに出ると、道端に油を入れた大きな甕が並べられており、傍をひとりの男性が歩いているのが見えました。そこでグラマンの機銃掃射に遭いました。
先生はたまたま物陰にいたうえに学生服を着ていたので、敵機に見つからずに済みました。男性の方を見ると、油の入った甕に頭から飛び込んで、難を逃れていたそうです。
この話を父にしたところ、こう答えられました。「人間は銃撃に遭うと、とにかく物陰に隠れようとする。それこそ道に転がってるレンガの欠片にすら、隠れれるんやないかと思ってしまうんや」
当時の話としてグラマンの件はやはり外せません。
後半はまた別のお話です。
MK
幼少期より周囲から戦時中の体験談を大量に聞かされたので、現在フル活用中。
最近の子供は親はおろか祖父母も戦後生まれで、こういう事柄に接していないのが不幸だと思う今日この頃。
※当時の日本では機銃掃射した米軍戦闘機を総じて「グラマン」と呼称しており、固有の戦闘機名とは異なる場合があります。
幼少期より周囲から戦時中の体験談を大量に聞かされたので、現在フル活用中。
最近の子供は親はおろか祖父母も戦後生まれで、こういう事柄に接していないのが不幸だと思う今日この頃。
※当時の日本では機銃掃射した米軍戦闘機を総じて「グラマン」と呼称しており、固有の戦闘機名とは異なる場合があります。
Eyecatch image: By U.S. Navy [Public domain], via Wikimedia Commons
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コメント一覧 (1件)
>>サバミリ管理人様
お世話になっております。作者です。
この度は記事の掲載に加えて、「グラマン」という言葉の注釈と、動画まで付けていただき有難うございました。
ムスタングの機銃掃射動画、本当に怖いですね。小船がなす術もなく撃たれていく場面には寒気がします。飛行場のある硫黄島が陥落したため、アメリカ陸軍の重装備な戦闘機が投入されてしまったのだそうで。
当時の日本は連日こういう目に合わされていたかと思うと言葉も出ません。
(戦争知らない世代の私の目では、手塚治虫の漫画『カノン』を思い出します)
いつもいつも感謝に堪えません。そして、今後も宜しくお願いします。