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戦中体験者からのちょっとした話

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私が子供の頃、周りの大人たちがよく戦時中の話を聞かせてくれました。地味な話でも、今にして思えば当時の状況が浮かび上がる、貴重なものばかりでした。

昨今は高齢化社会とはいえ、戦中の話を聞く機会が少なくなってきた様です。
そうなると、私が聞かされてきた話を自分ひとりの胸にしまっておくには、あまりにもったいない。それ故、今回筆を執った次第です。興味持って頂ければ幸いです。

目次

焼夷弾を燃料に(※)

私の父は徴兵され、陸軍で砲兵の訓練を受けていました。兵舎は海岸にあり、度々通りすがりのB29が焼夷弾を落としていました。父達はその不発弾を分解して、焚火に使っていたそうです。

「中を開けるとな、白いゼリー出てくる。それ塗ってから火点けたら、流木でも燃えるくらいの炎が立ちよる」
「俺らも素人ちゃうから、そんくらいは出来た」

作者 inazakira (【歴史展示】新潟県のあゆみ) [CC BY-SA 2.0], ウィキメディア・コモンズ経由

本土決戦の準備(※)

本土決戦が叫ばれていた昭和20年、私の母は小学5年生。学校では薙刀の稽古をさせられるようになりました。稽古の後は竹竿を渡されこう言われたそうです。

「本土決戦の際は、敵上陸部隊の戦車が沢山押し寄せるだろう。そうなったら、お前達も突撃し、この竹竿をキャタピラに突っ込んで食い止めるんだ」

特攻隊員の本音

私が中学時代通っていた塾の講師は、父親が特攻隊員だったとの話をしてくれました。
「飛行機に大勢で乗り込んで、相手の飛行場に胴体着陸して殴り込む部隊の隊長だった。けど悪天候続いてて、出撃を先延ばしている間に終戦迎える事になった」

今考えると、その部隊とは義烈空挺隊の事なのでしょう。その後、先生は父親が戦後語った言葉を教えてくれました。
「あのまま行かされてたら、飛行機乗り逃げして、どこかの小島に隠れるつもりやってん」

作者 Tsuguichi Koyanagi (Domei Tsushin) [Public domain], ウィキメディア・コモンズ経由

敗戦の影響

父は生家が貧乏だったらしく、よく「高等教育受けさせてもらえなかった」と愚痴っていました。
そんな父は数学が得意で、そこを見込まれて徴兵後は砲兵科に配属されました。特に、軍の学校で行われた大砲学の試験では、クラスで1人だけ百点満点取ったと自慢していました。

ところが、敗戦で軍が解体されたことにより、父は学習の場を失ってしまいました。
「戦争に負けたのを悔しいと思う、最大の理由はそれやな」
戦後の父は、戦時中に取得した電気工事士の資格を頼りに、電気屋として身を立てる事になります。

 

MK
多くの戦中体験者に囲まれて育つ。結果、ネタを大量に抱える事になり、現在それを活用中。
タイトルの後ろに「※」が付いたものは、文章は異なりますが、ミクシィのつぶやきでも使ったネタです。

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