太平洋戦争と第18回東京オリンピック(昭和39年)は、 日本にとって最悪の戦禍と最大の平和の象徴として対照の極みとなっています。
真珠湾奇襲攻撃
昭和16年12月8日未明、大日本帝国海軍・第一航空艦隊の航空部隊が、 真珠湾・米太平洋艦隊に奇襲攻撃をかけました。太平洋戦争の始まりです。
真珠湾攻撃は周囲の猛反対がありながら、連合艦隊司令長官・山本五十六が強引に押し通して決行された常識外れの作戦で、 それだけに作戦実施にあたっては、解決すべき技術的難問が多数存在する問題作戦でした。
この難作戦の具体化から実施までを中心的に指導したのが、第一航空艦隊航空参謀・源田實です。
源田は元々優秀な戦闘機乗りで、戦闘機を降りて司令部付きになるまでは、 「源田サーカス」と称賛される戦闘機に曲技飛行隊を率いていました。
その飛行隊の海軍内の位置付けは、現在の航空自衛隊ブルーインパルスとよく似ています。
ブルーインパルス創設
戦後航空自衛隊が正式発足した1954年(昭和29年)頃には戦闘機はジェット戦闘機の時代に入っていました。
航空自衛隊パイロットたちはその操縦技術を米国留学で学ぶ過程で、優れた飛行技術を持つアクロバット飛行隊の必要性を感じ、帰国後非公認ながらその活動を始めます。
一方、源田は昭和29年防衛庁に入庁し、昭和34年航空幕僚長に就任しました。
戦前アクロバット飛行隊を引きていた源田は、すぐさまアクロバット飛行隊を正式に認めました。
昭和35年当時の制式名称は空中機動研究班で、その後、特別飛行研究班に変更されます。
同時に所属基地浜松基地近くの天竜川から天竜の愛称で呼ばれましたがブルーインパルスの愛称に変更されました。
名実共にブルーインパルスの誕生でした。
東京オリンピック
昭和39年第18回夏季オリンピックが東京で開催されました。
敗戦で荒廃し切った日本が果たした復興の集大成ともいえる祭典でした。
そしてそのオープニングのクライマックスが、ブルーインパルスによって大空に描かれた大きな五輪マークでした。
それは戦後日本の国造りの中核である平和を正に象徴するものでした。
ジェット戦闘機で空に五色の五輪を描くという、奇想天外なアイデアを打ち出したのは源田實でした。
当時参議院の議員となっていた源田は、そのアイデアを引っ提げて五輪開催準備委員長に面会します。
開会式の「出し物」に苦慮していた委員長はこれに飛び付きました。
源田はこの前後にその政治力を駆使して、開会式でのブルーインパルスによる空中五輪を勝ち取りました。
戦争と平和を背負った源田實
日本最大の不幸である太平洋戦争の始まりに深く関与した源田は、その最大の災厄から平和国家として立ち直った日本の幸せの象徴、オリンピックにも大きく係わっていました。
近代日本の両極端に位置するこの二つの出来事を背負うことになった、源田實の運命の不思議さを強く感じます。
参照:ブルーインパルス 武田頼政 著
※画像は一部イメージです。
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