これは、私が数年前まで働いていたデイサービスで、戦争を経験した認知症のおじいさん達、おばあさん達に毎日のように聞いていた戦争体験談です。
私が働いていたデイサービスに通う、ほとんどの方が、戦争を経験している方ばかりでした。
その中でも印象に残っている、3人から聞いた、壮絶な体験をお話したいと思います。
1人目のおじいさんの話
その方は元校長先生でした。だいぶ認知症が進んでいましたが、元校長先生とだけあり、お話上手の上、ためになる話しを毎日繰り返していました。
その中でも戦争の話しになると泣きながら、嗚咽しながら毎日、私たちに話していました。
戦友が目の前で無残な姿で何人も死んでいってことや、自分自身、敵に銃でうたれ、生死をさまよい、その後、捕虜になり強制労働させられたこと、そして、今でも「お母さん!お母さん!死にたくない。会いたいです。」といいながら死んでいった、戦友達の声と姿が離れないと。
そのおじいさんはいつも言ってました。
皆、死ぬ寸前までお母さんのことを想い、心配していたと。
2人目のおばあさんの話
そして、次は戦時中、看護婦として九州の上の地域に配属されたおばあさんの話です。
時は戦争末期にさしかかり、病院には薬や包帯、その他の道具もなく、病院としての機能は麻痺していたそうです。
その上、次から次に負傷した兵隊が運ばれてきて、院内は血と死臭で充満していたそうです。
1番辛かったことは、10人近くで、1人の兵隊を押さえつけ、舌をかみ切って死なないよう棒を口にくわえさせながらの麻酔無し手術。現場は阿鼻叫喚で、中には精神がおかしくなる看護婦さんもいたようです。
「今は、あまりに平和すぎて、当時のことが幻のように思える。それとも、戦時中に自分も死んで今が天国なのではないのか?」そのようにおばあさんはいつも話していました。
3人目のおじいさんの話
そして最後の方ですが、この方も認知症が進んでいる、元特攻隊志願のおじいさんでした。
身長が高く、目立っていたのでいつも上官に人一倍殴られていたそうです。
なかなか特攻させてもらえず、やきもきしながら過ごしていたそうですが、ようやく特攻日が決まったのに、特攻する3日前に終戦になり、特攻できず大変悔しかったと話していました。
そしていつも泣きながら「良く私を殴っていた上官が、責任を感じて終戦後、切腹自殺して亡くなった。今思えば、戦争に負けると分かってて、同じ郷里の私をなかなか特攻させてくれんかったのだろう。
上官の気持ちを思うと可哀そうで、可哀そうで申し訳ない」と。認知症は、ごく最近のことを忘れてしまうのに対し、昔の記憶はあたかも今起こったかのように鮮明に覚えていることが特徴ですが、私の関わったおじいさんたち、おばあさんたちは驚くくらい、皆、鮮明に戦争のことを覚えている方ばかりでした。
そのくらい、戦争という体験が個人個人の心の底に深く残っているのだと思います。
どうか、これからも元気で、認知症の語り部たちとして、私たちに語り続けて欲しいと強く願っています。
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