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近代医療「武器軟膏」は何故廃れたのか?

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17世紀、近世ヨーロッパにおいて、「武器軟膏」と呼ばれる医療が提唱された。
武器に付着した血液と、傷口との共感作用を利用した療法である。

「共感の粉」と呼ばれる薬を、傷付けた「武器の方」に付ける事で、回復を促した。
実績も多い療法であり、かのフィリップス・アウレオールス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムによれば、20マイルの距離を離れても「共感」の効果は見られたという。
これほどの治療法が、何故失われてしまったのだろうか。

目次

武器軟膏という「医療」

何ともオカルティックな話だが、武器軟膏は実際に効果が見られたという。
ここで提唱される「共感」は、似たものや共通するものは、同じような性質を持つ、という考え方である。
これは、東洋医学の薬膳、肝臓の調子が悪い時は動物の肝臓を食べ、心臓が悪い時は心臓を食べる、といったものと比較的似通っている。
信頼し難いのは、その距離があまりに離れすぎている事だが、少なくとも「治療効果」は観察されたとされる。

人体は未だブラックボックスだ。
効果が出た事を「そんな訳がない」と切り捨てる事は難しい。
医療の中の公衆衛生の基礎に、「疫学」という考え方がある。
特定の集団における、疾病の分布やパターンから、決定因子、すなわち病原を割り出していく学問である。

この時の病原は、必ずしも「病原体」を意味しない。中途段階の「大まかな病原」を割り出す事で、罹病者を防ぐ事が出来る。
特定の井戸の近くに住む人に病気が出るなら、その井戸を使わせないようにする。川の近くで奇病にかかる人が多いなら、まずは川に入らないよう指導する。猫を喰い尽くした地域で疾病が流行するなら、猫を元の数に戻す。
理由より前に、統計的事実を根拠に対策するという、「今目の前にいる人」を助ける、実践的な方法論を含む。
病原体の発見が困難だった時代、極めて有効な手段となったろう。

そう考えれば、武器軟膏は間違いなく「医療」「医学」であったろう。

武器軟膏の「効果」

種を明かせば、武器軟膏に効果はない。
治療効果はゼロである。

だが、このゼロが有利に働いた。当時の「正式な」西洋医療は、四体液説に従ったものである。
これは、血液、粘液、胆汁、黒胆汁の4つの液体のバランスで体調が保たれているという考え方である。
調子が悪いと、そのうちのどれかが過剰になる。

当然、過剰な体液を「抜いて」やれば良いという理屈になり、下剤や瀉血が基本的な医療による処置だった。
弱った肉体に下剤をかけたり、瀉血で血を抜くと、人は割と死ぬ。
恐らく、何かしらの直観が現実に合致し、上手い「抜き方」で命を永らえた事もあったろうが、トータルで見れば人を弱めるマイナスの行為だった。
マイナスよりはゼロがマシ。
ここに来て、武器軟膏の方が相対的に、有効な医療となったのである。

武器軟膏への批判

その後、武器軟膏は廃れた。
正しい医療が行われるようになり、おまじないのような武器軟膏に効果がない事が知れ渡った。

・・・訳ではない。

この魔術的な治療は、悪魔が関わるものとして、宗教的観点から批判に曝されたのである。
例えばフランドルの医師ヤン・ファン・ヘルモントは、武器軟膏に意見を求められた際、「善悪に差別がない魔術的なもの」と中立的な意見を述べたが、それでもスペイン教会から異端審問を受け、自宅軟禁とされた。
離れたものが作用するという考え方も、一般的な感覚とは合わないため、18世紀まで武器軟膏療法が続く事はなかったという。

つまり武器軟膏は「効果がないから」廃れた訳ではない。

医療がマイナスになる事は、珍しい話ではなかった。
19世紀、センメルヴェイス・イグナーツ・フュレプ医師は、自分の勤める病院において、産婦の死亡率が高い事に気付いた。
当時産褥熱と総称された、出産後の感染症の原因を、医師が手洗いしない事が原因であると見抜いた。
そして、手洗いの徹底によって、産褥熱の感染率を劇的に下げる事に成功したという。
つまり、この時代までは、西洋医学よりも武器軟膏で救われた命があり得た、とも言える。

※尚、フュレプ医師は、この手洗い理論を他の医師から批判され、精神を病み、入院先の精神病院で衛兵から暴行を受けた後、死亡している。恐らく、批判した「医師」は、病原体に操られていたか、人間に擬態した病原体であったと考えられるが、本記事の趣旨と逸れるので省略する。

医療が救うもの

これらを見るに、医療は必ずしも「病気を治し、人の命を繋ぎ止める事」だけが期待されている訳ではないのだろう。
ある程度地位がある遺族にとって、「周囲の人から後ろ指を指されないような、権威ある治療を、充分に施した」そういう事実が必要なのだ。

こう考えれば、「老人になってから、管だらけで生き伸びるなんてまっぴらだ」という人が、自分の親には胃瘻とストマを造設する、といった行動にも筋が通る。医療は、遺された人の心こそ救うのである。

傷病人当人の命と、遺族の長きに渡る後悔、社会にとってどちらが優先されるべきか、というのは問うまでもない話であろう。

※画像はイメージです。

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