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邪馬台国は何処にあったのか?

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邪馬台国が何処にあったのか?今だに論争が絶えません!
主流としては畿内説と北九州切磋琢磨ですが、実は日本全国に邪馬台国の候補地があり、今日はその中でも邪馬台国沖縄説を取り上げたいと思います。

邪馬台国は何処にあったのか?
現在では、北九州九説と畿内説が有力だと言われていますが、実は全国各地に「こここそ邪馬台国」と言われている所があったことを最近になって知りました。
中でも私がもっともだと思ったのが沖縄説です。そもそも邪馬台国は魏志倭人伝にその存在が記述されていたのですから、その記述通りに道を辿るのが自然だと思います。

ところが北九州説も畿内説も魏志倭人伝に記述されている行程通りに行けば、当てはまらないのです。機内説に至っては、東西南北の方角の記載が間違っているという前提です。素直に行程通りに行くと、たどり着くのは九州のはるか南の海上で、そこには現在は何もありません。

「現在は」と敢えて記したのは、過去には、そこに陸地があった可能性があるということです。それが与那国島海底遺跡です。
素直に行程通りに行けば、そこに遺跡があったとすれば、その遺跡こそ邪馬台国と考えるのが自然ではないでしょうか?

jpatokal http://wikitravel.org/en/User:Jpatokal [CC BY-SA 3.0], via Wikimedia Commons

超能力者FB I捜査官で有名なジヨーマクモニーグル氏が、邪馬台国の女王卑弥呼の顔を遠隔透視したところ、東南アジア系の顔をしていたそうです。
だとすれば邪馬台国は沖縄または、かって沖縄の南に存在した陸地にあったと言うのが1番自然なのではないでしょうか?

また、この海底遺跡の凄いところは、伝説のムー大陸の一部であった可能性もあることです。

邪馬台国は大地震で海底に沈んだ。そして、そこに住んでいた人達は、北に避難し佐賀の吉野ヶ里遺跡を作った。更に九州の先住民であった日向族は、それに押し出されるように東に向かった。
これが神武東征で、出雲を征服した後に機内にたどり着き大和朝廷を作った、これが一番自然な考え方だと私は思います。

何故、大和朝廷は機内に都を置いたのか?それは、奈良も京都も山に囲まれた盆地で防御に適していたからではないでしょうか?
魏志倭人伝に出てくる地名と風俗が沖縄各地の地名、風俗(刺青をしている等)が似ていることも沖縄説を後押ししていると思います。

これは、木村教授の唱えている説ですが、私にはこれが一番スッキリして、また、ロマンがより掻き立てられます。

話が少しそれますが、邪馬台国はなかった!説もあるんですね。その説によると、邪馬台国の台の字の旧字体である臺の字が、一部の字の旧字体である壱の字によく似ているために書き間違えあり「邪馬壱国」が「邪馬台国」になってしまったとか。

だから、邪馬壱国は存在したが邪馬台国は存在したしなかった。何だかこじつけのような話ですが、こんな説もあるということでご紹介してみました。
私はへそ曲がりですから、有力な説よりも少数派を応援したくなります。

以上、邪馬台国は沖縄にあった説でした。

※画像はイメージです。

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