戦国期の日本で大砲が普及しなかった理由

戦国期の日本製の鉄砲は発達普及し質量共に世界のトップクラスとなりましたが、 それに比べて大砲はほとんど活躍しませんでした。
その理由について解説していきます。

世界の大砲

現代の大砲の概念に近いものでは、1332年の銅製のもの(口径7.7cm)が中国に残っており、欧州では英国に150kgの石弾の飛距離3kmという口径48cmの1450年製造の大砲があります。
1453年には口径64cmの大砲も造られました。
戦艦大和の超ド級主砲が46cmですからその大きさは押して知るべしです。

その後、錬鉄製や青銅砲を経て、1543年に鋳鉄砲が英国で実用化されました。
鋳鉄砲の最大の特徴は製造コストが安価なことでした。
しかし英国以外の国はその欠点の脆さを半世紀以上克服できず、安いこの大砲が英国を世界の強国に押し上げる一因となりました。

日本の大砲

史料上では1560年に足利将軍に贈呈された青銅砲が初見です。
これは「国崩(くにくずし)」と大仰な名が付いていますが、口径9.5cmで当時の世界基準では小型です。

大砲より少し早く伝来した鉄砲(種子島)は、30余年後には長篠の戦いで武器の主流になるほど急速に発達普及しましたが、大砲は合戦の主役にはなりませんでした。

日本の大砲は高価過ぎた

もちろん戦国武将は大砲の国産化を試み、より飛距離と命中精度の高い大砲を求めました。
大阪冬の陣で大型大砲の実用性を経験した徳川家康もその一人です。

ある研究者によると、家康が鉄砲製造の国友に作らせた大砲は1門1000両以上したと推算され、対してやはり家康が英国から買った大砲は、カルバリン砲4門とセイカ―砲1門の合計5門で1400両でした。

しかも英国製のこれら大砲は、遠路はるばる運ばれて来た末の価格であって、英国本国では青銅砲で約170両、後の鋳鉄砲で60両程度でした。

これ程両者に価格の差ができたのは、日本製の大砲が青銅や鉄の鋳物ではなく、鉄砲の銃身と同じ鍛鉄製だったからです。
大砲の爆発力に耐え得る強度の鋳物を造る技術がない日本では、その性能を獲得するためには鉄砲製造で培った鍛造しかありませんでした。
その結果が製造コストの大きな差となったのです。

大砲が発達しなかった理由

日本の国土は欧州や中国などの大陸と比べ、山間部が多く平野部が狭小な上に河川がたくさん流れているので、重量のある大型大砲の運搬はより困難でした。
ですから日本においては大砲は、それまでの戦乱の世でも実用的ではありませんでした。

また高すぎる兵器は、よほど切迫した状況がない限り求められません。
豊臣家が滅びて軍事力でねじ伏せるべき敵もいなくなり、後は徳川幕府の世を整備するだけの時代には、1門1000両の武器はもはや不必要です。
高価過ぎる大砲の研究は自然消滅しました。
日本の大砲研究の再出発は、250年以上後の外圧が加わり始める幕末を待たねばなりません。

歴史大好きじいさんです。
長篠の合戦における織田信長の鉄砲戦法は有名ですが、
戦国期に大砲が合戦の主役になったことはありません。

参考:鋳鉄砲の歴史と技術問題 新井宏
※画像はイメージです。

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